えますで。湯は沸《たぎ》らせましたが――いや、どの小児衆《こどもしゅ》も性急で、渇かし切ってござって、突然《いきなり》がぶりと喫《あが》りまするで、気を着けて進ぜませぬと、直きに火傷《やけど》を。」
「火傷を…うむ。」
 と長い顔を傾ける。

       二

「同役とも申合わせまする事で。」
 と対向《さしむか》いの、可なり年配のその先生さえ少《わか》く見えるくらい、老実な語《くち》。
「加減をして、うめて進ぜまする。その貴方様《あなたさま》、水をフト失念いたしましたから、精々《せっせ》と汲込んでおりまするが、何か、別して三右衛門《さんえむ》にお使でもござりますか、手前ではお間には合い兼ね……」
 と言懸けるのを、遮って、傾けたまま頭《かぶり》を掉《ふ》った。
「いや、三右衛門でなくってちょうど可《い》いのだ、あれは剽軽《ひょうきん》だからな。……源助、実は年上のお前を見掛けて、ちと話があるがな。」
 出方が出方で、源助は一倍まじりとする。
 先生も少し極《きま》って、
「もっとこれへ寄らんかい。」
 と椅子をかたり。卓子《テエブル》の隅を座取って、身体《からだ》を斜《はす》に、袴《はかま》をゆらりと踏開いて腰を落しつける。その前へ、小使はもっそり進む。
「卓子の向う前でも、砂埃《すなッぽこり》に掠《かす》れるようで、話がよく分らん、喋舌《しゃべ》るのに骨が折れる。ええん。」と咳《しわぶき》をする下から、煙草《たばこ》を填《つ》めて、吸口をト頬へ当てて、
「酷《ひど》い風だな。」
「はい、屋根も憂慮《きづか》われまする……この二三年と申しとうござりまするが、どうでござりましょうぞ。五月も半ば、と申すに、北風《ならい》のこう烈《はげ》しい事は、十年|以来《このかた》にも、ついぞ覚えませぬ。いくら雪国でも、貴下様《あなたさま》、もうこれ布子から単衣《ひとえもの》と飛びまする処を、今日《こんにち》あたりはどういたして、また襯衣《しゃつ》に股引《ももひき》などを貴下様、下女の宿下り見まするように、古葛籠《ふるつづら》を引覆《ひっくりかえ》しますような事でござりまして、ちょっと戸外《おもて》へ出て御覧《ごろう》じませ。鼻も耳も吹切られそうで、何とも凌《しの》ぎ切れませんではござりますまいか。
 三右衛門なども、鼻の尖《さき》を真赤《まっか》に致して、えらい猿田彦《さるだひこ》にござります。はは。」
 と変哲もない愛想笑《あいそうわらい》。が、そう云う源助の鼻も赤し、これはいかな事、雑所先生の小鼻のあたりも紅《べに》が染《にじ》む。
「実際、厳《きびし》いな。」
 と卓子《テエブル》の上へ、煙管《きせる》を持ったまま長く露出《むきだ》した火鉢へ翳《かざ》した、鼠色の襯衣《しゃつ》の腕を、先生ぶるぶると震わすと、歯をくいしばって、引立《ひった》てるようにぐいと擡《もた》げて、床板へ火鉢をどさり。で、足を踏張《ふんば》り、両腕をずいと扱《しご》いて、
「御免を被《こうむ》れ、行儀も作法も云っちゃおられん、遠慮は不沙汰《ぶさた》だ。源助、当れ。」
「はい、同役とも相談をいたしまして、昨日《きのう》にも塞《ふさ》ごうと思いました、部屋(と溜《たまり》の事を云う)の炉《ろ》にまた噛《かじ》りつきますような次第にござります。」と中腰になって、鉄火箸《かなひばし》で炭を開《あら》けて、五徳を摺《ず》って引傾《ひっかた》がった銅の大薬鑵《おおやかん》の肌を、毛深い手の甲でむずと撫《な》でる。
「一杯|沸《たぎ》ったのを注《さ》しましょうで、――やがてお弁当でござりましょう。貴下様組は、この時間御休憩で?」
「源助、その事だ。」
「はい。」
 と獅噛面《しかみづら》を後へ引込《ひっこ》めて目を据える。
 雑所は前のめりに俯向《うつむ》いて、一服吸った後を、口でふっふっと吹落して、雁首《がんくび》を取って返して、吸殻を丁寧に灰に突込《つっこ》み、
「閉込んでおいても風が揺《ゆす》って、吸殻一つも吹飛ばしそうでならん。危いよ、こんな日は。」
 とまた一つ灰を浴《あび》せた。瞳《ひとみ》を返して、壁の黒い、廊下を視《なが》め、
「可《い》い塩梅《あんばい》に、そっちからは吹通さんな。」
「でも、貴方様まるで野原でござります。お児達《こだち》の歩行《ある》いた跡は、平一面《たいらいちめん》の足跡でござりまするが。」
「むむ、まるで野原……」
 と陰気な顔をして、伸上って透かしながら、
「源助、時に、何、今|小児《こども》を一人、少し都合があって、お前達の何だ、小使溜《こづかいだまり》へ遣《や》ったっけが、何は、……部屋に居るか。」
「居《お》りまするで、しょんぼりとしましてな。はい、……あの、嬢ちゃん坊ちゃんの事でござりましょう、部屋に居りますでございますよ。
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