安恬《あんてん》! 名だたる親不知《おやしらず》の荒磯に差懸《さしかか》りたるに、船体は微動だにせずして、畳《たたみ》の上を行くがごとくなりき。これあるいはやがて起らんずる天変の大頓挫《だいとんざ》にあらざるなきか。
 船は十一分の重量《おもみ》あれば、進行極めて遅緩《ちかん》にして、糸魚川《いといがわ》に着きしは午後四時半、予定に後《おく》るること約《およそ》二時間なり。
 陰※[#「日+(士/冖/一/一/口/一)」、38−9]《いんえい》たる空に覆《おおわ》れたる万象《ばんしょう》はことごとく愁《うれ》いを含みて、海辺の砂山に著《いちじ》るき一点の紅《くれない》は、早くも掲げられたる暴風|警戒《けいかい》の球標《きゅうひょう》なり。さればや一|艘《そう》の伝馬《てんま》も来《きた》らざりければ、五分間も泊《とどま》らで、船は急進直江津に向えり。
 すわや海上の危機は逼《せま》ると覚《おぼ》しく、あなたこなたに散在したりし数十の漁船は、北《にぐ》るがごとく漕戻《こぎもど》しつ。観音丸《かんのんまる》にちかづくものは櫓綱《ろづな》を弛《ゆる》めて、この異腹《いふく》の兄弟の前途を危《き
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