だぶつ》、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。」
 優《やさ》しくも学生は盲人《めしい》を扶《たす》けて船室を出《い》でぬ。
「どッこい、これから階子段《はしごだん》だ。気を着けなよ、それ危い。」
 かくて甲板《デッキ》に伴《ともな》いて、渠《かれ》の痛入《いたみい》るまでに介抱《かいほう》せし後《のち》、
「爺様《じいさん》、まあここにお坐り。下じゃ耐《たま》らない、まるで釜烹《かまうで》だ。どうだい、涼しかろ。」
「はい、はい、難有《ありがと》うございます。これは結構で。」
 学生はその側《かたわら》に寝転びたる友に向いて言えり。
「おい、君、最少《もすこ》しそっちへ寄ッた。この爺様《じいさん》に半座《はんざ》を分けるのだ。」
 渠《かれ》は快くその席を譲りて、
「そもそも半座《はんざ》を分けるなどとは、こういう敵手《あいて》に用《つか》う易《やす》い文句じゃないのだ。」
 かく言いてその友は投出したる膝《ひざ》を拊《う》てり。学生は天を仰ぎて笑えり。
「こんな時にでも用《つか》わなくッちゃ、君なんざ生涯|用《つか》う時は有りゃしない。」
「と先《まず》言ッて置《お》くさ。」
 盲人《めしい》はおそるおそるその席に割入《わりこ》みて、
「はい真平御免《まっぴらごめん》下さいまし。はい、はい、これはどうも、お蔭様で助かりまする。いや、これは気持の快《よ》い、とんと極楽でございます。」
 渠《かれ》は涼風の来《きた》るごとに念仏して、心|窃《ひそ》かに学生の好意を謝《しゃ》したりき。
 船室に在《あ》りて憂目《うきめ》に遭《あ》いし盲翁《めくらおやじ》の、この極楽浄土《ごくらくじょうど》に仏性《ほとけしょう》の恩人と半座《はんざ》を分つ歓喜《よろこび》のほどは、著《しる》くもその面貌《おももち》と挙動とに露《あらわ》れたり。
「はい、もうお蔭様で老夫《おやじ》め助かりまする。こうして眼も見えません癖《くせ》に、大胆な、単独《ひとり》で船なんぞに乗りまして、他様《はたさま》に御迷惑を掛けまする。」
「まったくだよ、爺様《じいさん》。」
 と学生の友は打笑《うちわら》いぬ。盲人《めしい》は面目《めんぼく》なげに頭《かしら》を撫《な》でつ。
「はい、はい、御尤《ごもっとも》で。実は陸《おか》を参ろうと存じましてございましたが、ついこの年者《としより》と申すものは、無闇《むやみ》と気ばかり急《せ》きたがるもので、一時《いっとき》も早く如来様《にょらいさま》が拝みたさに、こんな不了簡《ふりょうけん》を起しまして。……」
「うむ、無理はないさ。」と学生は頷《うなず》きて、
「何も目が見えんからといって、船に乗られんという理窟《りくつ》はすこしもない。盲人《めくら》が船に乗るくらいは別に驚くことはないよ。僕は盲目《めくら》の船頭に邂逅《でッくわ》したことがある。」
 その友は渠《かれ》の背《そびら》に一撃《いちげき》を吃《くらわ》して、
「吹くぜ、お株《かぶ》だ!」
 学生は躍起《やっき》となりて、
「君の吹くぜもお株《かぶ》だ。実際ださ、実際僕の見た話だ。」
「へん、躄《いざり》の人力挽《じんりきひき》、唖《おし》の演説家に雀盲《とりめ》の巡査、いずれも御採用にはならんから、そう思い給え。」
「失敬な! うそだと思うなら聞き給うな。僕は単独《ひとり》で話をする。」
「単独《ひとり》で話をするとは、覚悟を極《き》めたね。その志に免じて一條《ひとくさり》聞いてやろう。その代り莨《たばこ》を一本。……」
 眼鏡|越《ごし》に学生は渠《かれ》を悪《にく》さげに見遣《みや》りて、
「その口が憎いよ。何もその代りと言わんでも、与《く》れなら与《く》れと。……」
「与《く》れ!」と渠《かれ》はその掌《てのひら》を学生の鼻頭《はなさき》に突出《つきいだ》せり。学生は直《ただち》にパイレットの函《はこ》を投付けたり。渠《かれ》はその一本を抽出《ぬきいだ》して、燐枝《マッチ》を袂《たもと》に捜《さぐ》りつつ、
「うむ、それから。」
「うむ、それからもないもんだ。」
「まあそう言わずに折角《せっかく》話したまえ。謹聴々々《きんちょうきんちょう》。」
「その謹聴《きんちょう》のきん[#「きん」に丸傍点]の字は現金のきん[#「きん」に丸傍点]の字だろう。」
「未《いま》だ詳《つまびらか》ならず。」とその友は頭《かしら》を掉《ふ》りぬ。
「それじゃその莨《たばこ》を喫《の》んで謹聴《きんちょう》し給え。
 去年の夏だ、八田潟《はったがた》ね、あすこから宇木村《うのきむら》へ渡ッて、能登《のと》の海浜《かいひん》の勝《しょう》を探《さぐ》ろうと思って、家《うち》を出たのが六月の、あれは十日……だったかな。
 渡場《わたしば》に着くと、ちょうど乗合《のりあい》が揃《そろ》ッ
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