取舵
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)厄介《やっかい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)善光寺|詣《もうで》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「穴かんむり/目」、第3水準1−89−50]然《がっくり》と
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         上

「こりゃどうも厄介《やっかい》だねえ。」
 観音丸《かんのんまる》の船員は累々《やつやつ》しき盲翁《めくらおやじ》の手を執《と》りて、艀《はしけ》より本船に扶乗《たすけの》する時、かくは呟《つぶや》きぬ。
 この「厄介《やっかい》」とともに送られたる五七人の乗客を載了《のせおわ》りて、観音丸《かんのんまる》は徐々《じょじょ》として進行せり。
 時に九月二日午前七時、伏木港《ふしきこう》を発する観音丸《かんのんまる》は、乗客の便《べん》を謀《はか》りて、午後六時までに越後直江津《えちごなおえつ》に達し、同所《どうしょ》を発する直江津鉄道の最終列車に間に合《あわ》すべき予定なり。
 この憐《あわれ》むべき盲人《めしい》は肩身狭げに下等室に這込《はいこ》みて、厄介《やっかい》ならざらんように片隅に踞《うずくま》りつ。人ありてその齢《よわい》を問いしに、渠《かれ》は皺嗄《しわが》れたる声して、七十八歳と答えき。
 盲《めくら》にして七十八歳の翁《おきな》は、手引《てびき》をも伴《つ》れざるなり。手引をも伴れざる七十八歳の盲《めくら》の翁は、親不知《おやしらず》の沖を越ゆべき船に乗りたるなり。衆人《ひとびと》はその無法なるに愕《おどろ》けり。
 渠《かれ》は手も足も肉落ちて、赭黒《あかぐろ》き皮のみぞ骸骨《がいこつ》を裹《つつ》みたる[#「裹《つつ》みたる」は底本では「裏《つつ》みたる」]。躯《たけ》低く、頭《かしら》禿《は》げて、式《かた》ばかりの髷《まげ》に結《ゆ》いたる十筋右衛門《とすじえもん》は、略画《りゃくが》の鴉《からす》の翻《ひるがえ》るに似たり。眉《まゆ》も口も鼻も取立てて謂《い》うべき所《ところ》あらず。頬は太《いた》く痩《こ》けて、眼《まなこ》は※[#「穴かんむり/目」、第3水準1−89−50]然《がっくり》と陥《くぼ》みて盲《し》いたり。
 木綿袷《もめんあわせ》の條柄《しまがら》も分かぬまでに着古したるを後※[#「寨」の「木」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]《しりからげ》にして、継々《つぎつぎ》の股引《ももひき》、泥塗《どろまぶれ》の脚絆《きゃはん》、煮染《にし》めたるばかりの風呂敷包《ふろしきづつみ》を斜めに背負い、手馴《てなら》したる白※[#「木+諸」、第3水準1−86−25]《しらかし》の杖と一蓋《いっかい》の菅笠《すげがさ》とを膝《ひざ》の辺りに引寄せつ。産《うまれ》は加州《かしゅう》の在《ざい》、善光寺|詣《もうで》の途《みち》なる由《よし》。
 天気は西の方《かた》曇りて、東晴れたり。昨夜《ゆうべ》の雨に甲板《デッキ》は流るるばかり濡れたれば、乗客の多分《おおく》は室内に籠《こも》りたりしが、やがて日光の雲間を漏れて、今は名残《なごり》無く乾きたるにぞ、蟄息《ちっそく》したりし乗客|等《ら》は、先を争いて甲板《デッキ》に顕《あらわ》れたる。
 観音丸《かんのんまる》は船体|小《しょう》にして、下等室は僅《わずか》に三十余人を容《い》れて肩摩《けんま》すべく、甲板《デッキ》は百人を居《お》きて余《あまり》あるべし。されば船室よりは甲板《デッキ》こそ乗客を置くべき所にして、下等室は一個の溽熱《むしあつ》き窖廩《あなぐら》に過ぎざるなり。
 この内《うち》に留《とどま》りて憂目《うきめ》を見るは、三人《みたり》の婦女《おんな》と厄介《やっかい》の盲人《めしい》とのみ。婦女等《おんなたち》は船の動くと与《とも》に船暈《せんうん》を発《おこ》して、かつ嘔《は》き、かつ呻《うめ》き、正体無く領伏《ひれふ》したる髪の乱《みだれ》に汚穢《けがれもの》を塗《まみ》らして、半死半生の間に苦悶せり。片隅なる盲翁《めくらおやじ》は、毫《いささか》も悩める気色はあらざれども、話相手もあらで無聊《ぶりょう》に堪《た》えざる身を同じ枕に倒して、時々|南無仏《なむぶつ》、南無仏《なむぶつ》と小声に唱名《しょうみょう》せり。
 抜錨《ばつびょう》後二時間にして、船は魚津に着きぬ。こは富山県の良港にて、運輸の要地なれば、観音丸《かんのんまる》は貨物を積まむために立寄りたるなり。
[#天から4字下げ]来るか、来るかと浜に出て見れば、浜の松風音ばかり。
 櫓声《ろせい》に和《か》して高らかに唱連《うたいつ》れて、越中|米《まい》を
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