ていたので、すぐに乗込《のりこ》んだ。船頭は未だ到《い》なかッたが、所《ところ》の壮者《わかいもの》だの、娘だの、女房《かみさん》達が大勢で働いて、乗合《のりあい》に一箇《ひとつ》ずつ折《おり》をくれたと思い給え。見ると赤飯《こわめし》だ。」
「塩釜《しおがま》よりはいい。」とその友は容喙《まぜかえ》せり。
「謹聴《きんちょう》の約束じゃないか。まあ聴き給えよ。見ると赤飯《こわめし》だ。」
「おや。二個《ふたつ》貰《もら》ッたのか。だから近来《ちかごろ》はどこでも切符を出すのだ。」
この饒舌《じょうぜつ》を懲《こら》さんとて、学生は物をも言わで拳《こぶし》を挙《あ》げぬ。
「謝《あやま》ッた謝ッた。これから真面目《まじめ》に聴く。よし、見ると赤飯《こわめし》だ。それは解《わか》ッた。」
「そこで……」
「食ったのか。」
「何を?」
「いや、よし、それから。」
「これはどういう事実だと聞くと、長年この渡《わたし》をやッていた船頭が、もう年を取ッたから、今度|息子《むすこ》に艪《ろ》を譲ッて、いよいよ隠居《いんきょ》をしようという、この日《ひ》が老船頭、一世一代《いっせいちだい》の漕納《こぎおさめ》だというんだ。面白《おもしろ》かろう。」
渠《かれ》の友は嗤笑《せせらわら》いぬ。
「赤飯《こわめし》を貰《もら》ッたと思ってひどく面白がるぜ。」
「こりゃ怪《け》しからん! 僕が[#「怪《け》しからん! 僕が」は底本では「怪《け》しからん!僕が」]赤飯《こわめし》のために面白がるなら、君なんぞは難有《ありがた》がッていいのだ。」
「なぜなぜ。」と渠《かれ》は起回《おきかえ》れり。
「その葉巻《はまき》はどうした。」
「うむ、なるほど。面白い、面白い、面白い話だ。」
渠《かれ》は再び横になりて謹聴《きんちょう》せり。学生は一笑《いっしょう》して後《のち》件《くだん》の譚《はなし》を続けたり。
「その祝《いわい》の赤飯《こわめし》だ。その上に船賃《ふなちん》を取らんのだ。乗合《のりあい》もそれは目出度《めでたい》と言うので、いくらか包んで与《や》る者もあり、即吟《そくぎん》で無理に一句浮べる者もありさ。まあ思《おも》い思いに祝《いわ》ッてやったと思《おも》いたまえ。」
例の饒舌先生はまた呶々《どゝ》せり。
「君は何を祝った。」
「僕か、僕は例の敷島《しきしま》の道さ。」
「ふふふ、むしろ一つの癖《くせ》だろう。」
「何か知らんが、名歌だッたよ。」
「しかし伺《うかが》おう。何と言うのだ。」
学生はしばらく沈思《ちんし》せり。その間に「年波《としなみ》」、「八重の潮路《しおじ》」、「渡守《わたしもり》」、「心なるらん」などの歌詞《うたことば》はきれぎれに打誦《うちずん》ぜられき。渠《かれ》はおのれの名歌を忘却《ぼうきゃく》したるなり。
「いや、名歌《めいか》はしばらく預ッておいて、本文《ほんもん》に懸《かか》ろう。そうこうしているうちに船頭が出て来た。見ると疲曳《よぼよぼ》の爺様《じいさん》さ。どうで隠居《いんきょ》をするというのだから、老者《としより》は覚悟《かくご》の前だッたが、その疲曳《よぼよぼ》が盲《めくら》なのには驚いたね。
それがまた勘《かん》が悪いと見えて、船着《ふなつき》まで手を牽《ひか》れて来る始末だ。無途方《むてっぽう》も極《きわま》れりというべしじゃないか。これで波の上を漕《こ》ぐ気だ。皆《みんな》呆《あき》れたね。険難千方《けんのんせんばん》な話さ。けれども潟《かた》の事だから川よりは平穏だから、万一《まさか》の事もあるまい、と好事《ものずき》な連中《れんじゅう》は乗ッていたが、遁《に》げた者も四五人は有《あ》ッたよ。僕も好奇心《こうきしん》でね、話の種《たね》だと思ッたから、そのまま乗って出るとまた驚いた。
実に見せたかッたね、その疲曳《よぼよぼ》の盲者《めくら》がいざと言《い》ッて櫓柄《ろづか》を取ると、※[#「にんべん+乞」、第3水準1−14−8]然《しゃっきり》としたものだ、まるで別人さね。なるほどこれはその道《みち》に達したものだ、と僕は想《おも》ッた。もとよりあのくらいの潟《かた》だから、誰だッて漕《こ》げるさ、けれどもね、その体度《たいど》だ、その気力《きあい》だ、猛将《もうしょう》の戦《たたかい》に臨《のぞ》んで馬上に槊《さく》を横《よこた》えたと謂ッたような、凛然《りんぜん》として奪《うば》うべからざる、いや実にその立派さ、未だに僕は忘れんね。人が難《わけ》のない事を(眠っていても出来る)と言うが、その船頭は全くそれなのだ。よく聞いて見ると、その理《はず》さ。この疲曳《よぼよぼ》の盲者《めくら》を誰《たれ》とか為《な》す! 若い時には銭屋五兵衛《ぜにやごへえ》の抱《かかえ》で、年中千五
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング