百|石積《こくづみ》を家として、荒海を漕廻《こぎまわ》していた曲者《くせもの》なのだ。新潟から直江津ね、佐渡|辺《あたり》は持場《もちば》であッたそうだ。中年《ちゅうねん》から風眼《ふうがん》を病《わず》らッて、盲《つぶ》れたんだそうだが、別に貧乏というほどでもないのに、舟を漕《こ》がんと飯《めし》が旨《うま》くないという変物《へんぶつ》で、疲曳《よぼよぼ》の盲目《めくら》で在《い》ながら、つまり洒落《しゃれ》半分に渡《わたし》をやッていたのさ。
 乗合《のりあい》に話好《はなしずき》の爺様《じいさん》が居《い》て、それが言ッたよ。上手な船頭は手先で漕《こ》ぐ。巧者《こうしゃ》なのは眼で漕《こ》ぐ。それが名人となると、肚《はら》で漕《こ》ぐッ。これは大《おお》いにそうだろう。沖で暴風《はやて》でも吃《く》ッた時には、一寸先は闇だ。そういう場合には名人は肚《はら》で漕《こ》ぐから確《たしか》さ。
 生憎《あいにく》この近眼だから、顔は瞭然《はっきり》見えなかッたが、咥煙管《くわえぎせる》で艪を押すその持重加減《おちつきかげん》! 遖《あっぱ》れ見物《みもの》だッたよ。」
 饒舌《じょうぜつ》先生も遂に口を噤《つぐ》みて、そぞろに興《きょう》を催《もよお》したりき。

         下

 魚津《うおづ》より三日市《みっかいち》、浦山《うらやま》、船見《ふなみ》、泊《とまり》など、沿岸の諸駅《しょえき》を過ぎて、越中越後の境なる関《せき》という村を望むまで、陰晴《いんせい》すこぶる常ならず。日光の隠顕《いんけん》するごとに、天《そら》の色はあるいは黒く、あるいは蒼《あお》く、濃緑《こみどり》に、浅葱《あさぎ》に、朱《しゅ》のごとく、雪のごとく、激しく異状を示したり。
 邇《ちか》く水陸を画《かぎ》れる一帯の連山中に崛起《くっき》せる、御神楽嶽飯豊山《おかぐらがたけいいとよさん》の腰を十重二十重《とえはたえ》に※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]《めぐ》れる灰汁《あく》のごとき靄《もや》は、揺曳《ようえい》して巓《いただき》に騰《のぼ》り、見《み》る見る天上に蔓《はびこ》りて、怪物などの今や時を得んずるにはあらざるかと、いと凄《すさま》じき気色《けしき》なりき。
 元来|伏木《ふしき》直江津間の航路の三分の一は、遙《はるか》に能登半島の庇護《ひご》によりて、辛《から》くも内海《うちうみ》を形成《かたちつく》れども、泊《とまり》以東は全く洋々たる外海《そとうみ》にて、快晴の日は、佐渡島の糢糊《もこ》たるを見るのみなれば、四面《しめん》※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]茫《びょうぼう》として、荒波《あらなみ》山《やま》の崩《くず》るるごとく、心易《こころやす》かる航行は一年中半日も有難《ありがた》きなり。
 さるほどに汽船の出発は大事を取りて、十分に天気を信ずるにあらざれば、解纜《かいらん》を見合《みあわ》すをもて、却《かえ》りて危険の虞《おそれ》寡《すくな》しと謂《い》えり。されどもこの日の空合《そらあい》は不幸にして見謬《みあやま》られたりしにあらざるなきか。異状の天色《てんしょく》はますます不穏《ふおん》の徴《ちょう》を表せり。
 一時《ひとしきり》魔鳥《まちょう》の翼《つばさ》と翔《かけ》りし黒雲は全く凝結《ぎょうけつ》して、一髪《いっぱつ》を動かすべき風だにあらず、気圧は低落して、呼吸の自由を礙《さまた》げ、あわれ肩をも抑《おさ》うるばかりに覚えたりき。
 疑うべき静穏《せいおん》! 異《あやし》むべき安恬《あんてん》! 名だたる親不知《おやしらず》の荒磯に差懸《さしかか》りたるに、船体は微動だにせずして、畳《たたみ》の上を行くがごとくなりき。これあるいはやがて起らんずる天変の大頓挫《だいとんざ》にあらざるなきか。
 船は十一分の重量《おもみ》あれば、進行極めて遅緩《ちかん》にして、糸魚川《いといがわ》に着きしは午後四時半、予定に後《おく》るること約《およそ》二時間なり。
 陰※[#「日+(士/冖/一/一/口/一)」、38−9]《いんえい》たる空に覆《おおわ》れたる万象《ばんしょう》はことごとく愁《うれ》いを含みて、海辺の砂山に著《いちじ》るき一点の紅《くれない》は、早くも掲げられたる暴風|警戒《けいかい》の球標《きゅうひょう》なり。さればや一|艘《そう》の伝馬《てんま》も来《きた》らざりければ、五分間も泊《とどま》らで、船は急進直江津に向えり。
 すわや海上の危機は逼《せま》ると覚《おぼ》しく、あなたこなたに散在したりし数十の漁船は、北《にぐ》るがごとく漕戻《こぎもど》しつ。観音丸《かんのんまる》にちかづくものは櫓綱《ろづな》を弛《ゆる》めて、この異腹《いふく》の兄弟の前途を危《き
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