づか》わしげに目送《もくそう》せり。
 やがて遙《はるか》に能生《のう》を認めたる辺《あたり》にて、天色《そら》は俄《にわか》に一変せり。――陸《おか》は甚《はなは》だ黒く、沖は真白に。と見る間に血のごとき色は颯《さ》と流れたり。日はまさに入らんとせるなり。
 ここ一時間を無事に保たば、安危《あんき》の間を駛《は》する観音丸《かんのんまる》は、恙《つつが》なく直江津に着《ちゃく》すべきなり。渠《かれ》はその全力を尽して浪を截《き》りぬ。団々《だんだん》として渦巻く煤烟《ばいえん》は、右舷《うげん》を掠《かす》めて、陸《おか》の方《かた》に頽《なだ》れつつ、長く水面に横《よこた》わりて、遠く暮色《ぼしょく》に雑《まじ》わりつ。
 天は昏※[#「夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−82−16]《こんぼう》として睡《ねむ》り、海は寂寞《じゃくまく》として声無し。
 甲板《デッキ》の上は一時|頗《すこぶ》る喧擾《けんじょう》を極《きわ》めたりき。乗客は各々《おのおの》生命を気遣《きづか》いしなり。されども渠等《かれら》は未《いま》だ風も荒《すさ》まず、波も暴《あ》れざる当座《とうざ》に慰められて、坐臥行住《ざがぎょうじゅう》思い思いに、雲を観《み》るもあり、水を眺むるもあり、遐《とおく》を望むもありて、その心には各々無限の憂《うれい》を懐《いだ》きつつ、※[#「りっしんべん+易」、第3水準1−84−53]息《てきそく》して面《おもて》をぞ見合せたる。
 まさにこの時《とき》、衝《つ》と舳《とも》の方《かた》に顕《あらわ》れたる船長《せんちょう》は、矗立《しゅくりつ》して水先を打瞶《うちまも》りぬ。俄然《がぜん》汽笛の声は死黙《しもく》を劈《つんざ》きて轟《とどろ》けり。万事休す! と乗客は割るるがごとくに響動《どよめ》きぬ。
 観音丸《かんのんまる》は直江津に安着《あんちゃく》せるなり。乗客は狂喜の声を揚《あ》げて、甲板《デッキ》の上に躍《おど》れり。拍手は夥《おびただ》しく、観音丸《かんのんまる》万歳! 船長万歳! 乗合《のりあい》万歳!
 八人の船子《ふなこ》を備えたる艀《はしけ》は直《ただ》ちに漕《こぎ》寄せたり。乗客は前後を争いて飛移れり。学生とその友とはやや有《あ》りて出入口に顕《あらわ》れたり。その友は二人分の手荷物を抱《かか》えて、学生は例の厄介者《やっか
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