いもの》を世話して、艀《はしけ》に移りぬ。
 艀《はしけ》は鎖《くさり》を解《と》きて本船と別るる時、乗客は再び観音丸《かんのんまる》と船長との万歳を唱《とな》えぬ。甲板《デッキ》に立てる船長は帽《ぼう》を脱《だっ》して、満面に微笑《えみ》を湛《たた》えつつ答礼せり。艀《はしけ》は漕出《こぎいだ》したり。陸《りく》を去る僅《わずか》に三|町《ちょう》、十分間にして達すべきなり。
 折から一天《いってん》俄《にわか》に掻曇《かきくも》りて、※[#「風にょう+炎」、第4水準2−92−35]《ど》と吹下す風は海原を揉立《もみた》つれば、船は一支《ひとささえ》も支《ささ》えず矢を射るばかりに突進して、無二無三《むにむさん》に沖合へ流されたり。
 舳櫓《ともろ》を押せる船子《ふなこ》は慌《あわ》てず、躁《さわ》がず、舞上《まいあ》げ、舞下《まいさぐ》る浪《なみ》の呼吸を量《はか》りて、浮きつ沈みつ、秘術を尽して漕《こ》ぎたりしが、また一時《ひときり》暴増《あれまさ》る風の下に、瞻《みあぐ》るばかりの高浪《たかなみ》立ちて、ただ一呑《ひとのみ》と屏風倒《びょうぶだおし》に頽《くず》れんずる凄《すさま》じさに、剛気《ごうき》の船子《ふなこ》も※[#「口+阿」、第4水準2−4−5]呀《あなや》と驚き、腕《かいな》の力を失う隙《ひま》に、艫《へさき》はくるりと波に曳《ひか》れて、船は危《あやう》く傾《かたぶ》きぬ。
 しなしたり! と渠《かれ》はますます慌《あわ》てて、この危急に処すべき手段を失えり。得たりやと、波と風とはますます暴《あ》れて、この艀《はしけ》をば弄《もてあそ》ばんと企《くわだ》てたり。
 乗合《のりあい》は悲鳴して打《うち》騒ぎぬ。八人の船子《ふなこ》は効《かい》無き櫓柄《ろづか》に縋《すが》りて、
「南無金毘羅大権現《なむこんぴらだいごんげん》!」と同音《どうおん》に念ずる時、胴《どう》の間《ま》の辺《あたり》に雷《らい》のごとき声ありて、
「取舵《とりかじ》!」
 舳櫓《ともろ》の船子《ふなこ》は海上|鎮護《ちんご》の神の御声《みこえ》に気を奮《ふる》い、やにわに艪《ろ》をば立直して、曳々《えいえい》声を揚《あ》げて盪《お》しければ、船は難無《なんな》く風波《ふうは》を凌《しの》ぎて、今は我物なり、大権現《だいごんげん》の冥護《みょうご》はあるぞ、と船子《ふなこ
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