ご》によりて、辛《から》くも内海《うちうみ》を形成《かたちつく》れども、泊《とまり》以東は全く洋々たる外海《そとうみ》にて、快晴の日は、佐渡島の糢糊《もこ》たるを見るのみなれば、四面《しめん》※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]茫《びょうぼう》として、荒波《あらなみ》山《やま》の崩《くず》るるごとく、心易《こころやす》かる航行は一年中半日も有難《ありがた》きなり。
 さるほどに汽船の出発は大事を取りて、十分に天気を信ずるにあらざれば、解纜《かいらん》を見合《みあわ》すをもて、却《かえ》りて危険の虞《おそれ》寡《すくな》しと謂《い》えり。されどもこの日の空合《そらあい》は不幸にして見謬《みあやま》られたりしにあらざるなきか。異状の天色《てんしょく》はますます不穏《ふおん》の徴《ちょう》を表せり。
 一時《ひとしきり》魔鳥《まちょう》の翼《つばさ》と翔《かけ》りし黒雲は全く凝結《ぎょうけつ》して、一髪《いっぱつ》を動かすべき風だにあらず、気圧は低落して、呼吸の自由を礙《さまた》げ、あわれ肩をも抑《おさ》うるばかりに覚えたりき。
 疑うべき静穏《せいおん》! 異《あやし》むべき安恬《あんてん》! 名だたる親不知《おやしらず》の荒磯に差懸《さしかか》りたるに、船体は微動だにせずして、畳《たたみ》の上を行くがごとくなりき。これあるいはやがて起らんずる天変の大頓挫《だいとんざ》にあらざるなきか。
 船は十一分の重量《おもみ》あれば、進行極めて遅緩《ちかん》にして、糸魚川《いといがわ》に着きしは午後四時半、予定に後《おく》るること約《およそ》二時間なり。
 陰※[#「日+(士/冖/一/一/口/一)」、38−9]《いんえい》たる空に覆《おおわ》れたる万象《ばんしょう》はことごとく愁《うれ》いを含みて、海辺の砂山に著《いちじ》るき一点の紅《くれない》は、早くも掲げられたる暴風|警戒《けいかい》の球標《きゅうひょう》なり。さればや一|艘《そう》の伝馬《てんま》も来《きた》らざりければ、五分間も泊《とどま》らで、船は急進直江津に向えり。
 すわや海上の危機は逼《せま》ると覚《おぼ》しく、あなたこなたに散在したりし数十の漁船は、北《にぐ》るがごとく漕戻《こぎもど》しつ。観音丸《かんのんまる》にちかづくものは櫓綱《ろづな》を弛《ゆる》めて、この異腹《いふく》の兄弟の前途を危《き
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