風情《ふぜい》のある、小さな店を指して、
「あの裏に、旦那、弁慶《べんけい》手植《てうえ》の松があるで――御覧になるかな。」
「いや、帰途《かえり》にしましょう。」
 その手植の松より、直接《じか》に弁慶にお目に掛《かか》った。
 樹立《こだち》の森々《しんしん》として、聊《いささ》かもの凄《すご》いほどな坂道――岩膚《いわはだ》を踏むようで、泥濘《ぬかり》はしないがつるつると辷《すべ》る。雨降りの中では草鞋《わらじ》か靴ででもないと上下《じょうげ》は難《むずか》しかろう――其処《そこ》を通抜《とおりぬ》けて、北上川《きたかみがわ》、衣河《ころもがわ》、名にしおう、高館《たかだち》の址《あと》を望む、三方見晴しの処(ここに四阿《あずまや》が立って、椅子の類、木の株などが三つばかり備えてある。)其処《そこ》へ出ると、真先に案内するのが弁慶堂である。
 車夫《わかいしゅ》が、笠を脱いで手に提《さ》げながら、裏道を崖下《がけさが》りに駈出《かけだ》して行った。が、待つと、間もなく肩に置手拭《おきてぬぐい》をした円髷《まるまげ》の女が、堂の中から、扉を開いた。
「運慶の作でござります。」
 と、ちょんと坐ってて言う。誰でも構わん。この六尺等身と称《とな》うる木像はよく出来ている。山車《だし》や、芝居で見るのとは訳《わけ》が違う。
 顔の色が蒼白い。大きな折烏帽子《おりえぼし》が、妙に小さく見えるほど、頭も顔も大の悪僧の、鼻が扁《ひらた》く、口が、例の喰《くい》しばった可恐《おそろ》しい、への字形でなく、唇を下から上へ、へ[#「へ」に傍点]の字を反対に掬《しゃく》って、
「むふッ。」
 ニタリと、しかし、こう、何か苦笑《にがわらい》をしていそうで、目も細く、目皺《めじわ》が優しい。出額《おでこ》でまたこう、しゃくうように人を視《み》た工合が、これで魂《たましい》が入ると、麓《ふもと》の茶店へ下りて行って、少女《こおんな》の肩を大《おおき》な手で、
「どうだ。」
 と遣《や》りそうな、串戯《じょうだん》ものの好々爺《こうこうや》の風がある。が、歯が抜けたらしく、豊《ゆたか》な肉の頬のあたりにげっそりと窶《やつれ》の見えるのが、判官《ほうがん》に生命《いのち》を捧げた、苦労のほどが偲《しの》ばれて、何となく涙ぐまるる。
 で、本文《ほんもん》通り、黒革縅《くろかわおどし》の大鎧《おおよろい》、樹蔭《こかげ》に沈んだ色ながら鎧《よろい》の袖《そで》は颯爽《さっそう》として、長刀《なぎなた》を軽くついて、少し屈《こご》みかかった広い胸に、兵《えもの》の柄《え》のしなうような、智と勇とが満ちて見える。かつ柄も長くない、頬先《ほおさき》に内側にむけた刃も細い。が、かえって無比の精鋭を思わせて、颯《さっ》と掉《ふ》ると、従って冷い風が吹きそうである。
 別に、仏菩薩《ぶつぼさつ》の、尊《とうと》い古像が架《か》に据えて数々ある。
 みどり児《ご》を、片袖《かたそで》で胸に抱《いだ》いて、御顔《おんかお》を少し仰向《あおむ》けに、吉祥果《きっしょうか》の枝を肩に振掛《ふりか》け、裳《もすそ》をひらりと、片足を軽く挙げて、――いいぐさは拙《つたな》いが、舞《まい》などしたまう状《さま》に、たとえば踊りながらでんでん太鼓で、児《こ》をおあやしのような、鬼子母神《きしぼじん》の像があった。御面《おんおもて》は天女に斉《ひと》しい。彩色《いろどり》はない。八寸ばかりのほのぐらい、が活けるが如き木彫《きぼり》である。
「戸を開けて拝んでは悪いんでしょうか。」
 置手拭《おきてぬぐい》のが、
「はあ、其処《そこ》は開けません事になっております。けれども戸棚でございますから。」
「少々ばかり、御免下さい。」
 と、網の目の細い戸を、一、二寸開けたと思うと、がっちりと支《つか》えたのは、亀井六郎《かめいろくろう》が所持と札を打った笈《おい》であった。
 三十三枚の櫛《くし》、唐《とう》の鏡、五尺のかつら、紅《くれない》の袴《はかま》、重《かさね》の衣《きぬ》も納《おさ》めつと聞く。……よし、それはこの笈にてはあらずとも。
「ああ、これは、疵《きず》をつけてはなりません。」
 棚が狭いので支《つか》えたのである。
 そのまま、鬼子母神を礼して、ソッと戸を閉《た》てた。
 連《つれ》の家内が、
「粋《いき》な御像《おすがた》ですわね。」
 と、ともに拝んで言った。
「失礼な事を、――時に、御案内料は。」
「へい、五銭。」
「では――あとはどうぞお賽銭《さいせん》に。」
 そこで、鎧《よろい》着《き》たたのもしい山法師に別れて出た。
 山道、二町ばかり、中尊寺はもう近い。
 大《おおき》な広い本堂に、一体見上げるような釈尊《しゃくそん》のほか、寂寞《せきばく》として何もない
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