七宝の柱
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)山吹《やまぶき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その書体|楷法《かいほう》正しく

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「門<眞」、第3水準1−93−54]
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 山吹《やまぶき》つつじが盛《さかり》だのに、その日の寒さは、俥《くるま》の上で幾度も外套の袖《そで》をひしひしと引合《ひきあわ》せた。
 夏草《なつくさ》やつわものどもが、という芭蕉《ばしょう》の碑が古塚《ふるづか》の上に立って、そのうしろに藤原氏《ふじわらし》三代栄華の時、竜頭《りゅうず》の船を泛《うか》べ、管絃《かんげん》の袖を飜《ひるがえ》し、みめよき女たちが紅《くれない》の袴《はかま》で渡った、朱欄干《しゅらんかん》、瑪瑙《めのう》の橋のなごりだと言う、蒼々《あおあお》と淀んだ水の中に、馬の首ばかり浮いたような、青黒く朽古《くちふる》びた杭《くい》が唯《ただ》一つ、太く頭を出して、そのまわりに何の魚《うお》の影もなしに、幽《かすか》な波が寂《さび》しく巻く。――雲に薄暗い大池がある。
 池がある、この毛越寺《もうえつじ》へ詣でた時も、本堂わきの事務所と言った処《ところ》に、小机を囲んで、僧とは見えない、鼠だの、茶だの、無地の袴はいた、閑《ひま》らしいのが三人控えたのを見ると、その中に火鉢はないか、赫《かっ》と火の気の立つ……とそう思って差覗《さしのぞ》いたほどであった。
 旅のあわれを、お察しあれ。……五月の中旬《なかば》と言うのに、いや、どうも寒かった。
 あとで聞くと、東京でも袷《あわせ》一枚ではふるえるほどだったと言う。
 汽車中《きしゃちゅう》、伊達《だて》の大木戸《おおきど》あたりは、真夜中のどしゃ降《ぶり》で、この様子では、思立《おもいた》った光堂《ひかりどう》の見物がどうなるだろうと、心細いまできづかわれた。
 濃い靄《もや》が、重《かさな》り重り、汽車と諸《もろ》ともに駈《かけ》りながら、その百鬼夜行《ひゃくきやこう》の、ふわふわと明けゆく空に、消際《きえぎわ》らしい顔で、硝子《がらす》窓を覗《のぞ》いて、
「もう!」
 と笑って、一つ一つ、山、森、岩の形を顕《あら》わす頃から、音もせず、霧雨になって、遠近《おちこち》に、まばらな田舎家《いなかや》の軒とともに煙りつつ、仙台に着いた時分に雨はあがった。
 次第に、麦も、田も色には出たが、菜種《なたね》の花も雨にたたかれ、畠《はたけ》に、畝《あぜ》に、ひょろひょろと乱れて、女郎花《おみなえし》の露を思わせるばかり。初夏はおろか、春の闌《たけなわ》な景色とさえ思われない。
 ああ、雲が切れた、明《あかる》いと思う処《ところ》は、
「沼だ、ああ、大《おおき》な沼だ。」
 と見る。……雨水が渺々《びょうびょう》として田を浸《ひた》すので、行く行く山の陰は陰惨として暗い。……処々《ところどころ》巌《いわ》蒼く、ぽっと薄紅《うすあか》く草が染まる。嬉《うれ》しや日が当ると思えば、角《つの》ぐむ蘆《あし》に交《まじ》り、生茂《おいしげ》る根笹《ねざさ》を分けて、さびしく石楠花《しゃくなげ》が咲くのであった。
 奥の道は、いよいよ深きにつけて、空は弥《いや》が上に曇った。けれども、志《こころざ》す平泉《ひらいずみ》に着いた時は、幸いに雨はなかった。
 そのかわり、俥《くるま》に寒い風が添ったのである。
 ――さて、毛越寺では、運慶《うんけい》の作と称《とな》うる仁王尊《におうそん》をはじめ、数ある国宝を巡覧せしめる。
「御参詣の方にな、お触《さわ》らせ申しはいたさんのじゃが、御信心かに見受けまするで、差支えませぬ。手に取って御覧なさい、さ、さ。」
 と腰袴《こしばかま》で、細いしない竹の鞭《むち》を手にした案内者の老人が、硝子蓋《がらすぶた》を開けて、半ば繰開《くりひら》いてある、玉軸金泥《ぎょくじくこんでい》の経《きょう》を一巻、手渡しして見せてくれた。
 その紺地《こんじ》に、清く、さらさらと装上《もりあが》った、一行金字《いちぎょうきんじ》、一行銀書《いちぎょうぎんしょ》の経である。
 俗に銀線に触るるなどと言うのは、こうした心持《こころもち》かも知れない。尊《たっと》い文字は、掌《て》に一字ずつ幽《かすか》に響いた。私は一拝《いっぱい》した。
「清衡朝臣《きよひらあそん》の奉供《ぶぐ》、一切経《いっさいきょう》のうちであります――時価で申しますとな、唯《ただ》この一巻でも一万円以上であります。」
 橘《たちばな》南谿《なんけい》の東遊記《とうゆうき》に、
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これは清衡
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