《きよひら》存生《ぞんじょう》の時、自在坊《じざいぼう》蓮光《れんこう》といへる僧に命じ、一切経書写の事を司《つかさど》らしむ。三千日が間、能書《のうしょ》の僧数百人を招請《しょうせい》し、供養し、これを書写せしめしとなり。余《よ》もこの経を拝見せしに、その書体|楷法《かいほう》正しく、行法《ぎょうほう》また精妙にして――
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 と言うもの即《すなわち》これである。
 ちょっと(この寺のではない)或《ある》案内者に申すべき事がある。君が提《ささ》げて持った鞭だ。が、遠くの掛軸《かけじく》を指し、高い処《ところ》の仏体を示すのは、とにかく、目前に近々《ちかぢか》と拝まるる、観音勢至《かんおんせいし》の金像《きんぞう》を説明すると言って、御目《おんめ》、眉の前へ、今にも触れそうに、ビシャビシャと竹の尖《さき》を振うのは勿体《もったい》ない。大慈大悲の仏たちである。大して御立腹もあるまいけれども、作《さく》がいいだけに、瞬《またたき》もしたまいそうで、さぞお鬱陶《うっとう》しかろうと思う。
 俥《くるま》は寂然《しん》とした夏草塚《なつくさづか》の傍《そば》に、小さく見えて待っていた。まだ葉ばかりの菖蒲《あやめ》杜若《かきつばた》が隈々《くまぐま》に自然と伸びて、荒れたこの広い境内《けいだい》は、宛然《さながら》沼の乾いたのに似ていた。
 別に門らしいものもない。
 此処《ここ》から中尊寺《ちゅうそんじ》へ行く道は、参詣の順をよくするために、新たに開いた道だそうで、傾いた茅《かや》の屋根にも、路傍《みちばた》の地蔵尊《じぞうそん》にも、一々《いちいち》由緒のあるのを、車夫《わかいしゅ》に聞きながら、金鶏山《きんけいざん》の頂《いただき》、柳の館《たち》あとを左右に見つつ、俥《くるま》は三代の豪奢《ごうしゃ》の亡びたる、草の径《こみち》を静《しずか》に進む。
 山吹がいまを壮《さかり》に咲いていた。丈高《たけたか》く伸びたのは、車の上から、花にも葉にも手が届く。――何処《どこ》か邸《やしき》の垣根|越《ごし》に、それも偶《たま》に見るばかりで、我ら東京に住むものは、通りがかりにこの金衣《きんい》の娘々《じょうじょう》を見る事は珍しいと言っても可《よ》い。田舎の他土地《ほかとち》とても、人家の庭、背戸《せど》なら格別、さあ、手折《たお》っても抱いてもいいよ、とこう野中《のなか》の、しかも路の傍《はた》に、自由に咲いたのは殆ど見た事がない。
 そこへ、つつじの赤いのが、ぽーとなって咲交《さきまじ》る。……
 が、燃立《もえた》つようなのは一株も見えぬ。霜《しも》に、雪に、長く鎖《とざ》された上に、風の荒ぶる野に開く所為《せい》であろう、花弁が皆堅い。山吹は黄なる貝を刻んだようで、つつじの薄紅《うすくれない》は珊瑚《さんご》に似ていた。
 音のない水が、細く、その葉の下、草の中を流れている。それが、潺々《せんせん》として巌《いわ》に咽《むせ》んで泣く谿河《たにがわ》よりも寂《さみ》しかった。
 実際、この道では、自分たちのほか、人らしいものの影も見なかったのである。
 そのかわり、牛が三頭、犢《こうし》を一頭《ひとつ》連れて、雌雄《めすおす》の、どれもずずんと大《おおき》く真黒なのが、前途《ゆくて》の細道を巴形《ともえがた》に塞《ふさ》いで、悠々と遊んでいた、渦が巻くようである。
 これにはたじろいだ。
「牛飼《うしかい》も何もいない。野放しだが大丈夫かい。……彼奴《あいつ》猛獣だからね。」
「何ともしゃあしましねえ。こちとら馴染《なじみ》だで。」
 けれども、胸が細くなった。轅棒《かじ》で、あの大《おおき》い巻斑《まきふ》のある角《つの》を分けたのであるから。
「やあ、汝《われ》、……小僧も達《たっ》しゃがな。あい、御免。」
 敢《あえ》て獣《けもの》の臭《におい》さえもしないで、縦の目で優しく視《み》ると、両方へ黒いハート形の面《おもて》を分けた。が牝牛《めうし》[#「牝牛」では底本では「牡牛」]の如きは、何だか極りでも悪かったように、さらさらと雨のあとの露を散《ちら》して、山吹の中へ角を隠す。
 私はそれでも足を縮めた。
「ああ、漸《やっ》と衣《ころも》の関《せき》を通ったよ。」
 全く、ほっとしたくらいである。振向いて見る勇気もなかった。
 小家《こいえ》がちょっと両側に続いて、うんどん、お煮染《にしめ》、御酒《おんさけ》などの店もあった。が、何処《どこ》へも休まないで、車夫《わかいしゅ》は坂の下で俥《くるま》をおろした。
 軒端《のきば》に草の茂った、その裡《なか》に、古道具をごつごつと積んだ、暗い中に、赤絵《あかえ》の茶碗、皿の交《まじ》った形は、大木の空洞《うつろ》に茨《いばら》の実の溢《こぼ》れたような
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