わざ》と安心して大胆な不埒《ふらち》を働く。うむ、耳を蔽《おお》うて鐸《すず》を盗むと云ふのぢや。いづれ音の立ち、声の響くのは覚悟ぢやらう。何も彼《か》も隠さずに言つて了《しま》へ。何時《いつ》の事か。一体、何時頃《いつごろ》の事か。これ。
侍女 何時頃《いつごろ》とおつしやつて、あの、影法師の事でございませうか。其は唯今《ただいま》……
紳士 黙れ。影法師か何《なに》か知らんが、汝等《きさまら》三人の黒い心が、形にあらはれて、俺の邸《やしき》の内外を横行しはじめた時だ。
侍女 御免遊ばして、御前様《ごぜんさま》、私《わたくし》は何にも存じません。
紳士 用意は出来とる。女郎《めろう》、俺の衣兜《かくし》には短銃《ピストル》があるぞ。
侍女 えゝ。
紳士 さあ、言へ。
侍女 御前様、お許し下さいまし。春の、暮方《くれがた》の事でございます。美しい虹《にじ》が立ちまして、盛りの藤《ふじ》の花と、つゝじと一所《いっしょ》に、お庭の池に影の映りましたのが、薄紫《うすむらさき》の頭《かしら》で、胸に炎の搦《から》みました、真紅《しんく》なつゝじの羽《はね》の交《まじ》つた、其の虹の尾を曳《ひ》きました大きな鳥が、お二階を覗《のぞ》いて居《お》りますやうに見えたのでございます。其の日は、御前様のお留守、奥様が欄干越《らんかんごし》に、其の景色をお視《なが》めなさいまして、――あゝ、綺麗《きれい》な、此の白い雲と、蒼空《あおぞら》の中に漲《みなぎ》つた大鳥《おおとり》を御覧――お傍に居《お》りました私《わたくし》に然《そ》うおつしやいまして――此の鳥は、頭《かしら》は私《わたし》の簪《かんざし》に、尾を私《わたし》の帯に成るために来たんだよ。角《つの》の九《ここの》つある、竜が、頭《かしら》を兜《かぶと》に、尾を草摺《くさずり》に敷いて、敵に向ふ大将軍を飾つたやうに。……けれども、虹には目がないから、私《わたし》の姿が見つからないので、頭《かしら》を水に浸して、うなだれ悄《しお》れて居る。どれ、目を遣《や》らう――と仰有《おっしゃ》いますと、右の中指に嵌《は》めておいで遊ばした、指環の紅《あか》い玉《たま》でございます。開《ひら》いては虹に見えぬし、伏せては奥様の目に見えません。ですから、其の指環をお抜きなさいまして。
紳士 うむ、指環を抜いてだな。うむ、指環を抜いて。
侍女 
前へ 次へ
全18ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング