さんは留守にした己《おのれ》の店の、草鞋《わらじ》の下を潜《くぐ》って入った。
草履を土間に脱いで、一渡《ひとわたり》店の売物に目を配ると、真中《まんなか》に釣《つる》した古いブリキの笠の洋燈《ランプ》は暗いが、駄菓子にも飴《あめ》にも、鼠は着かなかった、がたりという音もなし、納戸の暗がりは細流のような蚊の声で、耳の底に響くばかりなり。
「可恐《おそろ》しい唸《うなり》じゃな。」と呟《つぶや》いて、一|間口《けんぐち》の隔《へだて》の障子の中へ、腰を曲げて天窓《あたま》から入ると、
「おう、帰ったのか。」
「おや。」
「酷《ひど》い蚊だなあ。」
「まあ、お前様《めえさま》。まあ、こんな中に先刻《さっき》にからござらせえたか。」
「今しがた。」
「暗いから、はや、なお耐《たま》りましねえ。いかなこッても、勝手が分らねえけりゃ、店の洋燈でも引外《ひっぱず》してござれば可《よ》いに。」
深切を叱言《こごと》のごとくぶつぶつ言って、納戸の隅の方をかさかさごそりごそりと遣る。
「可《い》いから、可いから。」といって、しばらくすると膝を立直した気勢《けはい》がした。
「近所の静まるまで、もうち
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