、婆さんはかえって猶予《ためら》わない。
「滅相な、お前様、この湯の谷の神様が使わっしゃる、白い烏が守ればといって、若い女が、どうして滝まで行《ゆ》かれますものか。取りにでも行く気かなぞと、問わっしゃるさえ気が知れませぬてや。ぷッ、」と、おどけたような顔をして婆《ばば》は消えかかった蚊遣を吹いた。杉葉の瓦鉢《かわらばち》の底に赤く残って、烟《けぶり》も立たず燃え尽しぬ。
「お婆さん、御深切に難有《ありがと》う。」
 とうっかり物|思《おもい》に沈んでいたお雪は、心着いて礼をいう。
「あいあい、何の。もう、お大事になされませ、今にまたあの犬を連れた可厭《いやら》しいお客がござって迷惑なら、私家《わしとこ》へ来て、屈《かが》んで居ッさい。どれ、店を開けておいて、いかいこと油を売ったぞ、いや、どッこいな。」と立つ。

       十九

 帰りたくなると委細は構わず、庭口から、とぼとぼと戸外《おもて》へ出て行《ゆ》く。荒物屋の婆《ばばあ》はこの時分から忙《せわ》しい商売がある、隣の医者が家《うち》ばかり昔の温泉宿《ゆやど》の名残《なごり》を留《とど》めて、徒《いたず》らに大構《おおがまえ》
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