しずく》が落ちたそうで、指が冷《ひや》りとしたと思ったら、まあ。」
「へい、引掻《ひっか》いたんじゃありませんか。」
「今のが切ったんじゃないんですかい。」
「指環で切れるものかね、御常談を、引掻いたって、血が流れるものですか。」
「さればさ。」
「厭《いや》だ、私は、」と薄気味の悪そうな、悄《しょ》げた様子で、婦人《おんな》は人の目に立つばかり身顫《みぶるい》をして黙った。榎の下|寂《せき》として声なし、いずれも顔を見合せたのである。

       十三

「何だね、これは。」
「叱《しっ》、」と押えながら、島野紳士のセル地の洋服の肱《ひじ》を取って、――奥を明け広げた夏座敷の灯が漏れて、軒端《のきば》には何の虫か一個《ひとつ》唸《うなり》を立ててはたと打着《ぶつ》かってはまた羽音を響かす、蚊が居ないという裏町、俗にお園小路と称《とな》える、遊廓桜木町の居まわりに在り、夜更けて門涼《かどすずみ》の団扇が招くと、黒板塀の陰から頬被《ほおかぶり》のぬっと出ようという凄《すご》い寸法の処柄、宵の口はかえって寂寞《ひっそり》している。――一軒の格子戸を背後《うしろ》へ退《すさ》った。
 こ
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