忘れて、別に心あって存するごとく、瞳を据えて面《おもて》を合せた。
 ちょうどその時、四五十歩を隔てた、夜店の賑かな中を、背後《うしろ》の方で、一声高く、馬の嘶《いなな》くのが、往来の跫音《あしおと》を圧して近々と響いた。
 と思うと、滝太郎は、うむ、といって、振向いたが、吃驚《びっくり》したように、
「義作だ、おう、ここに居るぜ。」
「ちょいと、」
「ええ、」
「あれ、」といって振返された手を押えた。指の間には紅《くれない》一滴、見る見る長くなって、手首へ掛けて糸を引いて血が流れた。
「姉《ねえ》さん、」
「どうなすった。」
 押魂消《おッたまげ》た立合は、もう他人ではなくなって、驚いて声を懸ける。滝太郎はもう影も見えない。
 婦人《おんな》は顔の色も変えないで、切《きれ》で、血を押えながら、姉《ねえ》さん被《かぶり》のまま真仰向《まあおの》けに榎を仰いだ。晴れた空も梢《こずえ》のあたりは尋常《ただ》ならず、木精《こだま》の気勢《けはい》暗々として中空を籠《こ》めて、星の色も物凄《ものすご》い。
「おや、おや、おかしいねえ、変だよ、奇体なことがあるものだよ。露か知らん、上の枝から雫《
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