《すくい》に来たのであった。

       二十九

 子爵千破矢滝太郎は、今年が十九で、十一の時まで浅草|俵町《たわらまち》の質屋の赤煉瓦《あかれんが》と、屑屋《くずや》の横窓との間の狭い路地を入った突当りの貧乏長家に育って、納豆を食い、水を飲み、夜はお稲荷《いなり》さんの声を聞いて、番太の菓子を噛《かじ》った江戸児《えどッこ》である。
 母親と祖父《じい》とがあって、はじめは、湯島三丁目に名高い銀杏《いちょう》の樹に近い処に、立派な旅籠屋《はたごや》兼帯の上等下宿、三階|造《づくり》の館《やかた》の内に、地方から出て来る代議士、大商人《おおあきんど》などを宿して華美《はで》に消光《くら》していたが、滝太郎が生れて三歳《みッつ》になった頃から、年紀《とし》はまだ二十四であった、若い母親が、にわかに田舎ものは嫌いだ、虫が好かぬ、一所の内に居ると頭痛がすると言い出して、地方の客の宿泊をことごとく断った。神田の兄哥《あにい》、深川の親方が本郷へ来て旅籠を取る数《すう》ではないから、家業はそれっきりである上に、俳優狂《やくしゃぐるい》を始めて茶屋小屋|入《ばいり》をする、角力取《すもうとり》、芸人を引張込《ひっぱりこ》んで雲井を吹かす、酒を飲む、骨牌《かるた》を弄《もてあそ》ぶ、爪弾《つまびき》を遣る、洗髪《あらいがみ》の意気な半纏着《はんてんぎ》で、晩方からふいと家《うち》を出ては帰らないという風。
 滝太郎の祖父《じい》は母親には継父であったが、目を閉じ、口を塞《ふさ》いでもの言わず、するがままにさせておくと、瞬く内に家も地所も人手に渡った。謂《い》うまでもなく四人の口を過ごしかねるようになったので、大根畠に借家して半歳ばかり居食《いぐい》をしたが、見す見す体に鉋《かんな》を懸けて削り失《な》くすようなものであるから、近所では人目がある、浅草へ行って蔵前辺に屋台店でも出してみよう、煮込おでんの汁《つゆ》を吸っても、渇《かつ》えて死ぬには増《まし》だという、祖父の繰廻しで、わずか残った手廻《てまわり》の道具を売って動《うごき》をつけて、その俵町の裏長屋へ越して、祖父は着馴《きな》れぬ半纏被《はんてんぎ》に身を窶《やつ》して、孫の手を引きながら佐竹ヶ原から御徒町辺《おかちまちあたり》の古道具屋を見歩いたが、いずれも高直《たかね》[#「高直《たかね》」はママ]で力及ばず、ようよう竹町の路地の角に、黒板塀に附着《くッつ》けて売物という札を貼《は》ってあった、屋台を一個《ひとつ》、持主の慈悲で負けてもらって、それから小道具を買揃えて、いそいそ俵町に曳《ひ》いて帰ると、馴れないことで、その辺の見計いはしておかなかった、件《くだん》の赤煉瓦と横窓との間の路地は、入口が狭いので、どうしても借家まで屋台を曳込《ひきこ》むことが出来ないので、そのまま夜一夜《よひとよ》置いたために、三晩とは措《お》かず盗まれてしまったので、祖父は最後の目的の水の泡になったのに、落胆して煩い着いたが、滝太郎の舌が廻って、祖父ちゃん祖父ちゃん、というのを聞いて、それを思出に世を去った。
 後は母親が手一ツで、細い乳を含めて遣《や》る、幼児《おさなご》が玉のような顔を見ては、世に何等かの大不平あってしかりしがごとき母親が我慢の角も折れたかして、涙で半襟の紫の色の褪《あ》せるのも、汗で美しい襦袢《じゅばん》の汚れるのも厭《いと》わず、意とせず、些々《ささ》たる内職をして苦労をし抜いて育てたが、六ツ七ツ八ツにもなれば、膳《ぜん》も別にして食べさせたいので、手内職では追着《おッつ》かないから、世話をするものがあって、毎日吾妻橋を越して一《ある》製糸場に通っていた。
 留守になると、橋手前には腕白盛《わんぱくざかり》の滝太一人、行儀をしつけるものもなし、居まわりが居まわりなんで、鼻緒を切らすと跣足《はだし》で駆歩行《かけある》く、袖が切れれば素裸《すッぱだか》で躍出る。砂を掴《つか》む、小砂利を投げる、溝泥《どぶどろ》を掻廻《かきまわ》す、喧嘩《けんか》はするが誰も味方をするものはない。日が暮れなければ母親は帰らぬから、昼の内は孤児《みなしご》同様。親が居ないと侮って、ちょいと小遣でもある徒《てあい》は、除物《のけもの》にして苛《いじ》めるのを、太腹《ふとッぱら》の勝気でものともせず、愚図々々いうと、まわらぬ舌で、自分が仰向《あおむ》いて見るほどの兄哥《あにい》に向って、べらぼうめ!

       三十

 その悪戯《いたずら》といったらない、長屋内は言うに及ばず、横町裏町まで刎《は》ね廻って、片時の間も手足を静《じっ》としてはいないから、余りその乱暴を憎らしがる女房《かみさん》達は、金魚だ金魚だとそういった。蓋《けだ》し美しいが食えないという意《こころ》だそうな。
 滝太は
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