黒百合
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)石滝《いわたき》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)越中の国|立山《たてやま》なる
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]
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序
越中の国|立山《たてやま》なる、石滝《いわたき》の奥深く、黒百合となんいうものありと、語るもおどろおどろしや。姫百合、白百合こそなつかしけれ、鬼と呼ぶさえ、分けてこの凄《すさま》じきを、雄々しきは打笑い、さらぬは袖几帳《そでぎちょう》したまうらむ。富山の町の花売は、山賤《やまがつ》の類《たぐい》にあらず、あわれに美しき女なり。その名の雪の白きに愛でて[#「愛でて」は底本では「愛でで」]、百合の名の黒きをも、濃い紫と見たまえかし。
明治三十五年寅壬[#「寅壬」は縦中横]三月
[#改ページ]
一
「島野か。」
午《ひる》少し過ぐる頃、富山県知事なにがしの君が、四十物町《あえものちょう》の邸《やしき》の門で、活溌に若い声で呼んだ。
呼ばれたのは、知事の君が遠縁の法学生、この邸に奇寓《きぐう》する食客《しょっかく》であるが、立寄れば大樹《おおき》の蔭で、涼しい服装《みなり》、身軽な夏服を着けて、帽を目深《まぶか》に、洋杖《ステッキ》も細いので、猟犬ジャム、のほうずに耳の大《おおき》いのを後《うしろ》に従え、得々として出懸ける処《ところ》、澄ましていたのが唐突《だしぬけ》に、しかも呼棄《よびず》てにされたので。
およそ市中において、自分を呼棄てにするは、何等《なにら》の者であろうと、且つ怪《あやし》み、且つ憤って、目を尖《とが》らして顔を上げる。
「島野。」
「へい、」と思わず恐入って、紳士は止《や》むことを得ず頭《かしら》を下げた。
「勇美《ゆみ》さんは居るかい。」と言いさま摺《す》れ違い、門を入ろうとして振向いて言ったのは、十八九の美少年である。絹セルの単衣《ひとえ》、水色|縮緬《ちりめん》の帯を背後《うしろ》に結んだ、中背の、見るから蒲柳《ほりゅう》の姿に似ないで、眉も眦《まなじり》もきりりとした、その癖|口許《くちもと》の愛くるしいのが、パナマの帽子を無造作に頂いて、絹の手巾《ハンケチ》の雪のような白いのを、泥に染めて、何か包んだものを提げている。
成程これならば、この食客的紳士が、因ってもって身の金箔《きんぱく》とする処の知事の君をも呼棄てにしかねはせぬ。一国の門閥《もんばつ》、先代があまねく徳を布《し》いた上に、経済の道|宜《よろ》しきを得たので、今も内福の聞えの高い、子爵|千破矢《ちはや》家の当主、すなわち若君|滝太郎《たきたろう》である。
「お宅でございます、」と島野紳士は渋々ながら恭《うやうや》しい。
「学校は休《やすみ》かしら。」
「いえ、土曜日《はんどん》なんで、」
「そうか、」と謂《い》い棄てて少年はずッと入った。
「ちょッ。」
その後を見送って、島野はつくづく舌打をした。この紳士の不平たるや、単に呼棄てにされて、その威厳の幾分を殺《そ》がれたばかりではない。誰《たれ》も誰も一見して直ちに館《やかた》の飼犬だということを知って、これを従えた者は、知事の君と別懇の者であるということを示す、活《い》きた手形のようなジャムの奴《やつ》が、連れて出た己《おのれ》を棄てて、滝太郎の後から尾を振りながら、ちょろちょろと入ったのであった。
「恐れるな。小天狗《こてんぐ》め、」とさも悔しげに口の内に呟《つぶや》いて、洋杖《ステッキ》をちょいとついて、小刻《こきざみ》に二ツ三ツ地《つち》の上をつついたが、懶《ものう》げに帽の前を俯向《うつむ》けて、射る日を遮《さえぎ》り、淋《さみ》しそうに、一人で歩き出した。
「ジャム、」
真先《まっさき》に駈《か》けて入った猟犬をまず見着けたのは、当|館《やかた》の姫様《ひいさま》で勇美《ゆみ》子という。襟は藤色で、白地にお納戸で薩摩縞《さつまじま》の単衣《ひとえ》、目のぱッちりと大きい、色のくッきりした、油気の無い、さらさらした癖の無い髪を背《せな》へ下げて、蝦茶《えびちゃ》のリボン飾《かざり》、簪《かざし》は挿さず、花畠《はなばたけ》の日向《ひなた》に出ている。
二
この花畠は――門を入ると一面の芝生、植込のない押開《おっぴら》いた突当《つきあたり》が玄関、その左の方が西洋|造《づくり》で、右の方が廻《まわり》廊下で、そこが前栽になっている。一体昔の大名の別邸を取払った幾分の造作が残ったのに、件《くだん》の洋風の室数《まかず》を建て増したもので、
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