屹《きっ》とお雪を見返った。
径《こみち》に被《かぶ》さった樹々の葉に、さらさらと渡って、裙《すそ》から、袂から冷々《ひやひや》と膚《はだ》に染み入る夜の風は、以心伝心二人の囁を伝えて、お雪は思わず戦悚《ぞっ》とした。もう前後《あとさき》も弁《わきま》えず、しばらくも傍《そば》には居たたまらなくなって、そのまま、
「島野さん、お連《つれ》様もお見え遊ばしたし、失礼いたしますから、お嬢様にはどうぞ、」も震え声で口の裡《うち》、返事は聞きつけないで、引返《ひっかえ》そうとする。
「待ちなさい、」
「待て、おい、おい、おい、待て!」といいさま追い縋《すが》って、多磨太は警部長の令息であるから傍若無人。
「あれ、」と遁《に》げにかかる、小腕《こがいな》をむずと取られた。形《なり》も、振《ふり》も、紅《くれない》、白脛《しらはぎ》。
二十八
「※[#「足+宛」、第3水準1−92−36]《もが》くない、※[#「虫+奚」、第3水準1−91−59]※[#「虫+斥」、第3水準1−91−53]《ばった》、わはは、はは、」多磨太は容赦なくそのいわゆる小羊を引立《ひった》てた。
「あれ、放して、」
「おい、声を出しちゃあ不可《いかん》、黙っていな、優《おとな》しくしてついてお出《いで》。あれそれ謂っちゃあ第一何だ、お前の恥だ。往来で見ッともない、人が目をつけて顔を見るよ。」と島野は落着いたものである。多磨太は案を拍《う》たないばかりで、
「しかり、あきらめて覚悟をせい。魚《うお》の中でも鯉《こい》となると、品格が可いでな、俎《まないた》に乗ると撥《は》ねんわい。声を立てて、助かろうと思うても埒《らち》明かんよ。我輩あえて憚《はばか》らず、こうやって手を握ったまま十字街頭を歩くんじゃ。誰でも可い、何をすると咎《とが》めりゃ、黙れとくらわす。此女《こいつ》取調《とりしらべ》の筋があるで、交番まで引立《ひった》てる、私《わし》は雀部じゃというてみい、何奴《どいつ》もひょこひょこと米搗虫《こめつきむし》よ。」
「呑気なものさね、」と澄まし切って、島野は会心の微笑を浮べた。
「さあ、行こう、何も冥途《めいど》へ連れて行くんじゃあないよ。謂わばまあ殿様のお手が着くといったようなものさ。どうして雀部や私《わし》を望んだって、花売なんぞが、口も利かれるもんじゃあない、難有《ありがた》く思うが可いさ。」
法学生の堕落したのが、上部を繕ってる衣を脱いだ狼と、虎とで引挟《ひっぱさ》み、縛って宙に釣ったよりは恐しい手籠《てごめ》の仕方。そのまま歩き出した、一筋路。少《わか》い女を真中《まんなか》に、漢《おのこ》が二人要こそあれと、総曲輪の方から来かかって歩《あゆみ》を停《とど》め、間《あわい》を置いて前屈《まえかが》みになって透かしたが、繻子《しゅす》の帯をぎゅうと押えて呑込んだという風で、立直って片蔭に忍んだのは、前夜|榎《えのき》の下で、銀流《ぎんながし》の粉を売った婦人《おんな》であった。
お雪は呼吸《いき》さえ高うはせず、気を詰めて、汗になって、
「まあ、この手を放して、ねえ、手を放して、」と漫《そぞろ》である。
「可いわ、放すから遁《に》げちゃあならんぞ、」
「何、逃げれば、捕《つかま》える分のことさ、」
あらかじめ因果を含めたからと、高を括《くく》って、手を放すと半ば夢中、身を返して湯の谷の方へ走ろうとする。
「やい、汝《うぬ》!」
藁草履を蹴立てて飛着いて、多磨太が暗まぎれに掻掴《かいつか》む、鉄拳《かなこぶし》に握らせて、自若として、少しも騒がず、
「色男!」といって呵々《からから》と笑ったのは、男の声。呆れて棒立になった多磨太は、余りのことにその手を持ったまま動かず、ほとんど無意識に窘《すく》んだ。
「島野か、そこに居るのは。島野、おい、島野じゃないか。」
紳士はぎょっとして、思わず調子はずれに、
「誰《だ》、誰です。」
「己《おいら》だ、滝だよ。おい、ちょいと誰だか手を握った奴があるぜ。串戯《じょうだん》じゃあない、気味が悪いや、そういってお前放さしてくんな。おう、後生大事と握ってやがらあ。」
先刻《さっき》荒物屋の納戸で、媼《おうな》と蚊の声の中に言《ことば》を交えた客はすなわちこれである。媼は、誰とも、いかなる氏素性の少年とも弁えぬが、去年秋銃猟の途次《みちすがら》、渋茶を呑みに立寄って以来、婆や、家《うち》は窮屈で為方《しかた》がねえ、と言っては、夜昼|寛《くつろ》ぎに来るので、里の乳母のように心安くなった。ただ風変りな貴公子だとばかり思ってはいるが、――その時お雪が島野に引出されたのを見て、納戸へ転込《ころげこ》んで胸を打って歎くので、一人の婦人《おんな》を待つといって居合わせたのが、笑いながら駆出して湯の谷から救
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