雪は、突然驚いたようにいった。
「あれ星が飛びましたよ。」
湯の谷もここは山の方へ尽《はずれ》の家で、奥庭が深いから、傍《はた》の騒しいのにもかかわらず、森《しん》とした藪蔭《やぶかげ》に、細い、青い光物が見えたので。
「ああ、これから先はよくあるが、淋しいもんだよ。」
と力なげに団扇持った手を下げて、
「今も婆さんが深切に言ってくれたが、お雪さん、人が悪いという処へ推して行《ゆ》くのは不可《いけ》ない。何も、妖物《ばけもの》が出るの、魔が掴《つか》むのということは、目の前にあるとも思わないが、昔からまるで手も足も入《い》れない処じゃあ、人の知らない毒虫が居て刺そうも知れず、地《つち》の工合《ぐあい》で蹈《ふ》むと崩れるようなことがないとも限らないから。」
「はい、」
「行《ゆ》く気じゃあるまいね。」とやや力を籠《こ》めて確めた。
「はい、」と言懸けて、お雪は心に済まない様子で後を言い残して黙ったが、慌《あわただ》しく、
「蛍です。」
衝《つ》と立った庭の空を、つらつらと青い糸を引いて、二筋に見えて、一つ飛んだ。
「まあ、珍らしい、石滝から参りました。」
この辺《あたり》に蛍は珍らしいものであった、一つ一《びと》つ市中へ出て来るのは皆石滝から迷うて来るのだといい習わす。人に狩り取られて、親がないか、夫がないか、孤《みなしご》、孀婦《やもめ》、あわれなのが、そことも分かず彷徨《さまよ》って来たのであろう。人|可懐《なつかし》げにも見えて近々と寄って来る。お雪は細い音《ね》に立てて唇を吸って招きながら、つかつかと出て袂《たもと》を振った、横ぎる光の蛍の火に、細い姿は園生《そのう》にちらちら、髪も見えた、仄《ほのか》に雪なす顔を向けて、
「団扇を下さいなちょいと、あれ、」と打つ。蛍は逸《そ》れて、若山が上の廂《ひさし》に生えた一八《いちはつ》の中に軽《かろ》く留まった。
「さあ、団扇、それ、ははは……大きな女の嬰児《あか》さんだな。」と立ちも上らず坐ったまま、縁側から柄ばかり庭の中へ差向けたが、交際《つきあい》にも蛍かといって発奮《はず》みはせず、動悸《どうき》のするまで立廻って、手を辷《すべ》らした、蛍は、かえってその頭の上を飛ぶものを、振仰いで見ようともせぬ、男の冷《ひやや》かさ。見当違いに団扇を出して、大きな嬰児《あかんぼ》だといって笑ったが、声も何となくもの淋しい。お雪は草の中にすッくと立って、じっと男の方を視《なが》めたが、爪先《つまさき》を軽く、するすると縁側に引返《ひっかえ》して、ものありげに――こうつんとした事は今までにはなかったが――黙って柄の方から団扇を受取り、手を返して、爪立《つまだ》って、廂を払うと、ふッと消えた、光は飜《ひるがえ》した団扇の絵の、滝の上を這《ほ》うてその流《ながれ》も動く風情。
お雪は瞻《みまも》って、吻《ほっ》と息を吐《つ》いて、また腰を懸けて、黙って見ていた、目を上げて、そと男の顔を透かしながら、腰を捻《ね》じて、斜《ななめ》に身を寄せて、件《くだん》の団扇を、触らぬように、男の胸の辺りへ出して、
「可愛いでしょう、」といった声も尋常《ただ》ならず。
「何か、石滝の蛍か、そうか。」といって若山は何ともなしに微笑《ほほえ》んだが、顔は園生の方を向いて、あらぬ処を見た。涼しい目はぱッちりと開いていたので、蛍は動いた。団扇は揺れて、お雪の細い手は震えたのである。
二十一
「歩きますわ、御覧なさいな。」と沈んだ声でいいながら、お雪は打動かす団扇の蔭から、儚《はか》ない一点の青い灯《ともし》で、しばしば男の顔を透かして差覗《さしのぞ》く。
男はこの時もう黙ってしまい、顔を背けて避《よ》けようとするのを、また、
「御覧なさいな、」と、人知れずお雪は涙含《なみだぐ》んで、見る見る、男の顔の色は動いた。はッと思うと、
「止せ!」
若山は掌《てのひら》をもてはたと払ったが、端《はし》なく団扇を打って、柄は力のない手を抜けて、庭に落ちた。
「あれ、」といってお雪は顔を見ながら、と胸を衝《つ》いて背後《うしろ》に退《すさ》る。
渠《かれ》は膝を立直して、
「見えやあしない。」
「ええ!」
「僕の目が潰《つぶ》れたんだ。」
言いさま整然《ちゃん》として坐り直る、怒気満面に溢《あふ》れて男性の意気|熾《さかん》に、また仰ぎ見ることが出来なかったのであろう、お雪は袖で顔を蔽《おお》うて俯伏《うつぶし》になった。
「どうしたならどうしたと聞くさ、容体はどうです目が見えないか、と打出して言えば可《い》い。何だって、人を試みるようなことをして困らせるんだい、見えない目前《めさき》へ蛍なんか突出して、綺麗だ、動く、見ろ、とは何だ。残酷だな、無慈悲じゃあないか、星が飛んだの、蛍が歩くの
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