、婆さんはかえって猶予《ためら》わない。
「滅相な、お前様、この湯の谷の神様が使わっしゃる、白い烏が守ればといって、若い女が、どうして滝まで行《ゆ》かれますものか。取りにでも行く気かなぞと、問わっしゃるさえ気が知れませぬてや。ぷッ、」と、おどけたような顔をして婆《ばば》は消えかかった蚊遣を吹いた。杉葉の瓦鉢《かわらばち》の底に赤く残って、烟《けぶり》も立たず燃え尽しぬ。
「お婆さん、御深切に難有《ありがと》う。」
とうっかり物|思《おもい》に沈んでいたお雪は、心着いて礼をいう。
「あいあい、何の。もう、お大事になされませ、今にまたあの犬を連れた可厭《いやら》しいお客がござって迷惑なら、私家《わしとこ》へ来て、屈《かが》んで居ッさい。どれ、店を開けておいて、いかいこと油を売ったぞ、いや、どッこいな。」と立つ。
十九
帰りたくなると委細は構わず、庭口から、とぼとぼと戸外《おもて》へ出て行《ゆ》く。荒物屋の婆《ばばあ》はこの時分から忙《せわ》しい商売がある、隣の医者が家《うち》ばかり昔の温泉宿《ゆやど》の名残《なごり》を留《とど》めて、徒《いたず》らに大構《おおがまえ》の癖に、昼も夜も寂莫《せきばく》として物音も聞えず、その細君が図抜けて美しいといって、滅多に外へ出たこともないが、向うも、隣も、筋向いも、いずれ浅間で、豆洋燈《まめランプ》の灯が一ツあれば、襖《ふすま》も、壁も、飯櫃《めしびつ》の底まで、戸外《おもて》から一目に見透かされる。花売の娘も同じこと、いずれも夜が明けると富山の町へ稼ぎに出る、下駄の歯入、氷売、団扇売、土方、日傭取《ひやとい》などが、一廓を作《な》した貧乏町。思い思い、町々八方へ散《ちら》ばってるのが、日暮になれば総曲輪から一筋道を、順繰に帰って来るので、それから一時《ひとしきり》騒がしい。水を汲《く》む、胡瓜《きゅうり》を刻む。俎板《まないた》とんとん庖丁チョキチョキ、出放題な、生欠伸《なまあくび》をして大歎息を発する。翌日《あくるひ》の天気の噂をする、お題目を唱える、小児《こども》を叱る、わッという。戸外《おもて》では幼い声で、――蛍来い、山見て来い、行燈《あんど》の光をちょいと見て来い!
「これこれ暗くなった。天狗様が攫《さら》わっしゃるに寝っしゃい。」と帰途《かえり》がけに門口《かどぐち》で小児を威《おど》しながら、婆さんは留守にした己《おのれ》の店の、草鞋《わらじ》の下を潜《くぐ》って入った。
草履を土間に脱いで、一渡《ひとわたり》店の売物に目を配ると、真中《まんなか》に釣《つる》した古いブリキの笠の洋燈《ランプ》は暗いが、駄菓子にも飴《あめ》にも、鼠は着かなかった、がたりという音もなし、納戸の暗がりは細流のような蚊の声で、耳の底に響くばかりなり。
「可恐《おそろ》しい唸《うなり》じゃな。」と呟《つぶや》いて、一|間口《けんぐち》の隔《へだて》の障子の中へ、腰を曲げて天窓《あたま》から入ると、
「おう、帰ったのか。」
「おや。」
「酷《ひど》い蚊だなあ。」
「まあ、お前様《めえさま》。まあ、こんな中に先刻《さっき》にからござらせえたか。」
「今しがた。」
「暗いから、はや、なお耐《たま》りましねえ。いかなこッても、勝手が分らねえけりゃ、店の洋燈でも引外《ひっぱず》してござれば可《よ》いに。」
深切を叱言《こごと》のごとくぶつぶつ言って、納戸の隅の方をかさかさごそりごそりと遣る。
「可《い》いから、可いから。」といって、しばらくすると膝を立直した気勢《けはい》がした。
「近所の静まるまで、もうちっと灯《あかし》を点《つ》けないでおけよ。」
「へい。」
「覗《のぞ》くと煩《うるさ》いや。」
「それでは蚊帳を釣って進ぜましょ。」
「何、おいら、直ぐ出掛けようかとも思ってるんだ。」
「可いようにさっしゃりませ。」
「ああ、それから待ちねえこうだと、今に一人|此家《ここ》へ尋ねて来るものがあるんだから、頼むぜ。」
「お友達かね。お前様は物事《ものずき》じゃで可《よ》いけれど、お前様のような方のお附合なさる人は、から、入ってしばらくでも居られます所じゃあござりませぬが。」
言いも終らず、快活に、
「気扱いがいる奴じゃねえ、汚《きたね》え婦人《おんな》よ。」
「おや!」と頓興《とんきょ》にいった、婆《ばば》の声の下にくすくすと笑うのが聞える。
「婆ちゃん、おくんな。」と店先で小児《こども》の声、繰返して、
「おくんな。」
「おい。」
「静《しずか》に………」といって、暗中の客は寝転んだ様子である。
二十
婆《ばば》が帰った後《あと》、縁側に身を開いて、一人は柱に凭《よ》って仰向《あおむ》き、一人は膝に手を置いて俯向《うつむ》いて、涼しい暗い処に、白地の浴衣で居た、お
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