た位だろうよ。東京理科大学の標本室には、加賀の白山《はくさん》で取ったのと、信州の駒《こま》ヶ嶽《たけ》と御嶽《おんたけ》と、もう一色《ひといろ》、北海道の札幌で見出《みだ》したのと、四通り黒百合があるそうだが、私はまだ見たことはなかった。
お雪さん、そしてその花を欲しいというお嬢さんは、どういう考えで居るんだね。」
「はい、あのこないだからいつでもお頼みなさいますんでございますが、そういう風に御存じのではないのですよ。やっぱり私達が、名を聞いております通《とおり》、芝居でいたします早百合《さゆり》姫のことで、富山には黒百合があるッていうから、欲しい、どんな珍らしい花かも知れぬ。そして仏蘭西《フランス》にいらしった時、大層御懇意に遊ばした、その方もああいうことに凝っていらっしゃるお友達に、由緒を書いて贈りたいといってお騒ぎなんでございます。お請合《うけあい》はしませんけれども、黒百合のある処は解っておりますからとそう言って参りましたが、太閤記に書いてあります草双紙のお話のような、それより外|当地《ここ》でもまだ誰も見たものはないのでございますから、どうかしら、怪しいと存じました。それでは、あの、貴方《あなた》、処に因って、在る処には、きっと有るのでございますね。」
とお雪は膝に手を置いて、ものを思うごとく、じっと気を沈めて、念を入れて尋ねたのである。その時、白地の浴衣を着た、髪もやや乱れていたお雪の窶《やつ》れた姿は、蚊遣の中に悄然《しょうぜん》として見えたが、面《おもて》には一種不可言の勇気と喜《よろこび》の色が微《かすか》に動いた。
「おお、燻《くすぶ》る燻る、これは耐《たま》りませぬ、お目の悪いに。」
一団の烟《けぶり》が急に渦《うづま》いて出るのを、掴《つか》んで投げんと欲するごとく、婆さんは手を掉《ふ》った。風があたって、※[#「火+發」、262−14]《ぱっ》とする下火の影に、その髪は白く、顔は赤い。黄昏《たそがれ》の色は一面に裏山を籠《こ》めて庭に懸《かか》れり。
若山は半面に団扇を翳《かざ》して、
「当地《こちら》で黒百合のあるのはどこだとか言ったっけな。」
十八
「ねえ、お婆さん。」
お雪は、黒百合が富山にある、場所の答を、婆さんに譲って、其方《そなた》を見た。
湯の谷の主は習わずして自《おのず》から這般《しゃはん》の問に応ずべき、経験と知識とを有しているので、
「はい、石滝《いわたき》の奥には咲くそうでござります。」
若山は静かに目を眠ったまま、
「どんな処ですか。」
「蛍の名所なのね。」とお雪は引取る。
「ええ、その入口迄は女子供も参りまする、夏の遊山場でな、お前様。お茶屋も懸《かか》っておりまするで、素麺《そうめん》、白玉、心太《ところてん》など冷物《ひやしもの》もござりますが、一坂越えると、滝がござります。そこまでも夜分参るものは少い位で、その奥山と申しますと、今身を投げようとするものでも恐がって入りませぬ。その中でなければ無いと申しますもの、とても見られますものではござりますまい。」婆さんは言って、蚊遣を煽《あお》ぐ団扇の手を留めて、その柄を踞《つくば》った膝の上にする。
「それでは滝があって蛍の名所、石滝という処は湿地だと見えるね。」
「それはもう昼も夜も真暗《まっくら》でござります。いかいこと樹が茂って、満月の時も光が射《さ》すのじゃござりませぬ。
一体いつでも小雨が降っておりますような、この上もない陰気な所で、お城の真北《まッきた》に当りますそうな。ちょうどこの湯の谷とは両方の端で、こっちは南、田※[#「なべぶた/(田+久)」、264−5]《たんぼ》も広々としていつも明《あかる》うござりますほど、石滝は陰気じゃで、そのせいでもござりましょうか、評判の魔所で、お前様、ついしか入ったものの無事に帰りました例《ためし》はござりませぬよ。」
「その奥に黒百合があるんですッて、」お雪は婆さんの言《ことば》を取って、確めてこれを男に告げた。
若山はややあって、
「そりゃきっとあるな、その色といい、形といい、それからその昔からの言い伝《つたえ》で、何か黒百合といえば因縁事の絡《まつ》わった、美しい、黒い、艶《つや》を持った、紫色の、物凄《ものすご》い、堅い花のように思われるのに、石滝という処は、今の談《はなし》では、場処も、様子もその花があって差支えないと考える。もっとも有ることはあるのだから、大方黒百合が咲いてるだろう。夏月《かげつ》花ありという時節もちょうど今なんだけれども、何かね、本当にあるものなら、お前さん、その嬢さんに頼まれたから、取りにでも行《ゆ》こうというのか。」と落着いて尋ねて、渠《かれ》は気遣わしく傾いた。
「…………」お雪はふとその答に支《つか》えたが
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