ある士《さむらい》がしばし世を忍ぶ生計《たつき》によくある私塾を開いた。温厚|篤実《とくじつ》、今の世には珍らしい人物で、且つ博学で、恐らく大学に業を修したのであろうと、中学校の生意気なのが渡りものと侮って冷かしに行って舌を巻いたことさえあるから、教子《おしえご》も多く、皆敬い、懐《なず》いていたが、日も経《た》たず目を煩って久しく癒《い》えないので、英書を閲《けみ》し、数字を書くことが出来なくなったので、弟子は皆断った。直ちに収入がなくなったのである。
先生|葎《むぐら》ではございますが、庭も少々、裏が山|続《つづき》で風も佳《よし》、市《まち》にも隔って気楽でもございますから御保養かたがたと、たって勧めてくれたのが、同じ教子の内に頭角を抜いて、代稽古《だいげいこ》も勤まった力松という、すなわちお雪の兄で、傍ら家計を支えながら学問をしていたが、適齢に合格して金沢の兵営に入ったのは去年の十月。
後はこの侘住居《わびすまい》に、拓と阿《お》雪との二人のみ。拓は見るがごとく目を煩って、何をする便《たより》もないので、うら若い身で病人を達引《たてひ》いて、兄の留守を支えている。お雪は相馬氏の孤児《みなしご》で、父はかつて地方裁判所に、明決、快断の誉《ほまれ》ある名士であったが、かつて死刑を宣告した罪囚の女《むすめ》を、心着かず入れて妾《しょう》として、それがために暗殺された。この住居《すまい》は父が静を養うために古屋《こおく》を購《あがな》った別業の荒れたのである。近所に、癩病《かったい》医者だと人はいうが、漢方医のある、その隣家《となり》の荒物屋で駄菓子、油、蚊遣香《かやりこう》までも商っている婆さんが来て、瓦鉢《かわらばち》の欠けた中へ、杉の枯葉を突込《つっこ》んで燻《いぶ》しながら、庭先に屈《かが》んでいるが、これはまたお雪というと、孫も子も一所にして、乳で育てたもののように可愛《かわゆ》くてならないので。
一体、ここは旧《もと》山の裾の温泉宿《ゆやど》の一廓であった、今も湯の谷という名が残っている。元治年間立山に山|崩《くずれ》があって洪水《でみず》の時からはたと湧《わ》かなくなった。温泉《いでゆ》の口は、お雪が花を貯えておく庭の奥の藪畳《やぶだたみ》の蔭にある洞穴《ほらあな》であることまで、忘れぬ夢のように覚えている、谷の主とも謂《い》いつべき居てつきの媼《おうな》、いつもその昔の繁華を語って落涙する。今はただ蚊が名物で、湯の谷といえば、市《まち》の者は蚊だと思う。木屑《きくず》などを焼《た》いた位で追着《おッつ》かぬと、売物の蚊遣香は買わさないで、杉葉《すぎッぱ》を掻《か》いてくれる深切さ。縁側に両人《ふたり》並んだのを見て嬉しそうに、
「へい、旦那様知ってるだね。」
十七
「百合には種類が沢山あるそうだよ。」
ささめ、為朝《ためとも》、博多《はかた》、鬼百合、姫百合は歌俳諧にも詠《よ》んで、誰も知ったる花。ほしなし、すけ、てんもく、たけしま、きひめ、という珍らしい名なるがあり。染色《そめいろ》は、紅《くれない》、黄、透《すかし》、絞《しぼり》、白百合は潔く、袂《たもと》、鹿《か》の子は愛々しい。薩摩《さつま》、琉球《りゅうきゅう》、朝鮮、吉野、花の名の八重百合というのもある。と若山は数えて、また紅絹《もみ》の切《きれ》で美しく目を圧《おさ》え、媼《おうな》を見、お雪を見て、楽しげに、且つ語るよう、
「話の様子では西洋で学問をなすったそうだし、植物のことにそういう趣味を持ってるなら、私よりは、お前のお花主《とくい》の、知事の嬢さんが、よく知ってお在《いで》だろうが、黒百合というのもやっぱりその百合の中の一ツで、花が黒いというけれども、私が聞いたのでは、真黒《まっくろ》な花というものはないそうさ。」
「はい、」しばらくして、「はい、」媼は返事ばかりでは気が済まぬか、団扇持つ手と顔とを動かして、笑傾《えみかたむ》けては打頷《うちうなず》く。
「それでは、あの本当はないのでございますか。」とお雪は拓の座を避けて、斜《ななめ》に縁側に掛けている。
「いえ、無いというのじゃあないよ。黒い色のはあるまいと思うけれども、その黒百合というのは帯紫暗緑色で、そうさ、ごくごく濃い紫に緑が交《まじ》った、まあ黒いといっても可いのだろう。花は夏咲く、丈一尺ばかり、梢《こずえ》の処へ莟《つぼみ》を持つのは他《ほか》の百合も違いはない。花弁《はなびら》は六つだ、蕊《しべ》も六つあって、黄色い粉の袋が附着《くッつ》いてる。私が聞いたのはそれだけなんだ。西洋の書物には無いそうで、日本にも珍らしかろう。書いたものには、ただ北国《ほっこく》の高山で、人跡の到らない処に在るというんだから、昔はまあ、仙人か神様ばかり眺めるものだと思っ
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