、庭へ入った。」
「構わず?」
「なに咎《とが》めりゃ私《わし》が名乗って聞かせる、雀部といえば一縮《ひとちぢみ》じゃ。貴様もジャムを連れて堂々|濶歩《かっぽ》するではないか、親の光は七光じゃよ。こうやって二人並んで歩けばみんな途《みち》を除《よ》けるわい。」
島野は微笑して黙って頷《うなず》いた。
「はははは、愉快じゃな。勿論、淫魔《いんま》を駆って風紀を振粛し、且つ国民の遊惰《ゆうだ》を喝破する事業じゃから、父爺《おやじ》も黙諾の形じゃで、手下は自在に動くよ。既にその時もあれじゃ、植木屋の庭へこの藁草履を入れて掻廻《かきま》わすと、果せるかな、※[#「虫+奚」、第3水準1−91−59]※[#「虫+斥」、第3水準1−91−53]《ばった》、蟷螂《かまきり》。」
「まさか、」
「うむ、植木屋の娘と其奴《そいつ》と、貴様、植込の暗い中に何か知らん歎いておるわい。地面の上で密会なんざ、立山と神通川とあって存する富山の体面を汚《けが》すじゃから、引摺出《ひきずりだ》した。」
「南無三宝《なむさんぽう》、はははは。」
「挙動が奇怪じゃ、胡乱《うろん》な奴等、来い! と言うてな、角の交番へ引張《ひっぱ》って行って、吐《ぬか》せと、二ツ三ツ横面《よこッつら》をくらわしてから、親どもを呼出して引渡した。ははは、元来東洋の形勢日に非なるの時に当って、植込の下で密会するなんざ、不埒《ふらち》至極じゃからな。」
「罪なこッたね、悪い悪戯《いたずら》だ、」と言懸けて島野は前後を見て、杖《ステッキ》を突いた、辻の角で歩を停《とど》めたので。
「どこへ行《ゆ》こうかね。」
榎の梢《こずえ》は人の家の物干の上に、ここからも仰いで見らるる。
「総曲輪へ出て素見《ひやか》そうか。まあ来いあそこの小間物屋の女房にも、ちょいと印が付いておるじゃ。」
「行き届いたもんですな。」
「まだまだこれからじゃわい。」
「さよう、君のは夜が更けてからがおかしいだろうが、私は、その晩《おそ》くなると家《うち》が妙でないから失敬しよう。」
「ははあ、どこぞ行くんかい。」
「ちょいと。」
「そんなら行《ゆ》け。だが島野、」と言いながら紳士の顔を、皮の下まで見透かすごとくじろりと見遣って、多磨太はにやり。
擽《くすぐ》られるのを耐《こら》えるごとく、極めて真面目《まじめ》で、
「何かね、」
「注意せい、貴様の体にも印が着いたぞ。」
「え!」と吃驚《びっくり》して慌てて見ると、上衣《うわぎ》の裾に白墨で丸いもの。
「どうじゃ。」
「失敬な、」とばかり苦い顔をして、また手巾《ハンケチ》を引出した。島野はそそくさと払い落して、
「止したまえ。」
「ははは、構わん、遣れ。あの花売は未曾有《みぞう》の尤物《ゆうぶつ》じゃ、また貴様が不可《いけ》なければ私《わし》が占めよう。」
「大分、御意見とは違いますように存じますが。」
「英雄色を好むさ。」と傲然《ごうぜん》として言った。二人が気の合うのはすなわちここで、藁草履と猟犬と用いる手段は異なるけれども、その目的は等《ひとし》いのである。
島野は気遣わしそうに見えて、
「まさか、君、花売が処へは、用いまいね、何を、その白墨を。」
「可いわい、一ツぐらい貴様に譲ろう。油断をするな、那奴《あいつ》また白墨|一抹《いちまつ》に価するんじゃから。」
十六
「貴方《あなた》御存じでございますか。」
「ああ、今のその話の花か。知ってはいない、見たことはないけれどもあるそうだ。いや、有るに違いはないんだよ。」
萱《かや》の軒端《のきば》に鳥の声、という侘《わび》しいのであるが、お雪が、朝、晩、花売に市へ行く、出際と、帰ってからと、二度ずつ襷懸《たすきが》けで拭込《ふきこ》むので、朽目《くちめ》に埃《ほこり》も溜《たま》らず、冷々《ひやひや》と濡色を見せて涼しげな縁に端居《はしい》して、柱に背《せな》を持たしたのは若山|拓《ひらく》、煩《わずらい》のある双の目を塞《ふさ》いだまま。
生《うまれ》は東京で、氏素性は明かでない。父も母も誰も知らず、諸国漫遊の途次、一昨年の秋、この富山に来て、旅籠町の青柳《あおやぎ》という旅店に一泊した。その夜《よ》賊のためにのこらず金子《きんす》を奪われて、明《あく》る日の宿料もない始末。七日十日|逗留《とうりゅう》して故郷へ手紙を出した処で、仔細《しさい》あって送金の見込はないので、進退|谷《きわ》まったのを、宜《よろ》しゅうがすというような気前の好《い》い商人《あきんど》はここにはない。ただし地方裁判所の検事に朝野なにがしというのが、その為人《ひととなり》に見る所があって、世話をして、足を留《とど》めさせたということを、かつて教《おしえ》を受けた学生は皆知っている。若山は、昔なら浪人の手習師匠、由緒
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