った。
急に答がないので、更に、
「誰だ。」
「はい、」と幽《かす》かに応《こた》えた。
理学士が一生にただ一度目を開いて見たいのは、この時の姿であった、今のは疑《うたがい》も無いお雪である。
これを聞いて渠《かれ》は思わず手を差延べて、抱《いだ》こうとしたが、触れば消失《きえう》せるであろうと思って、悚然《ぞっ》として膝に置いたが、打戦《うちわなな》く。
「遅くなりまして済みませんでした、拓さん。」
と判然《はっきり》、それも一言《ひとこと》ごとに切なく呼吸《いき》が切れる様子。ありしがごとき艱難《かんなん》の中《うち》から蘇生《よみがえ》って来た者だということが、ほぼ確かめらるると同時に、吃驚《びっくり》して、
「おお、お雪か、お前! そして千破矢さんはどうした、」と数分時前、夢に渠と我とともにあった少年の名をいった。
お雪はその時答えなかった。
理学士は繰返してまた、
「千破矢さんはどうしたんだ、」と、これは何心なく安否を聞いたのであったが、ふと夢の中の事に思い当った。お雪の答が濁ったのを、さてはとばかり、胸を跳《おど》らして口を噤《つぐ》む。
しばらくして、
「送って来て下さいましたよ。」
「そして※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「あの、お向《むこう》の荒物屋に休んでいらっしゃいます。」
「そうか、」といったが、我ながら素気《そっけ》なく、その真心を謝するにも、怨《うらみ》をいうにも、喜ぶにも、激して容易《たやす》くは語《ことば》も出でず。あまりのことに、活きて再び家に帰って、現《うつつ》のごとき男を見ても直ぐにはものも言懸けなかった、お雪も同じ心であろう。ものいう目にも、見えぬ目にも、二人|斉《ひと》しく涙を湛《たた》えて、差俯向《さしうつむ》いて黙然とした。人はかかる時、世に我あることを忘るるのである。
框《かまち》に人の跫音《あしおと》がしたが、慌《あわただ》しく奥に来て、壮《さかん》な激しい声は、沈んで力強く、
「遁《に》げろ、遁げねえか、何をしとる!」
お雪は薄暗い燈《ともしび》の影に、濡れしおれた髪を振って、蒼白《あおじろ》い顔を上げた。理学士の耳にも正に滝太郎の声である、と思うも疾《と》しや!
「洪水《みず》だ、しっかりしろ。」
お雪は半ば膝を立てて、滝太郎の顔を見るばかり。
「早くしねえかい、べらぼうめ。」と叱るがごとくにいって、衝《つ》と縁側に出た、滝太郎はすっくと立った。しばらくして、あれといったが、お雪は蹶起《はねお》きようとして燈《ともし》を消した。
「周章《あわ》てるない、」といって滝太郎は衝《つ》と戻って、やにわにお雪の手を取った。
「助けてい!」と言いさまに、お雪は何を狼狽《うろた》えたか、扶《たす》けられた滝太郎の手を振放して、僵《たお》れかかって拓の袖を千切れよと曳《ひ》いた。
六十
お雪は曳いて、曳き動かして、
「どうしましょう、あれ、早く貴方《あなた》、貴方。」
拓は動じないで、磐石のごとく坐っているので、思わず手を放して、一人で縁側へ出たが、踏辷《ふみすべ》ったのか腰を突いた。しばらくは起きも得なかったが、むっくと立上ると柱に縋って、わなわなと顫《ふる》えた。ただ森《しん》として縁板が颯《さっ》と白くなったと思うと、水はひたひたと畳に上った。
「ええ、」といって学士も立った。
「可恐《おそろ》しい早さだ、放すな!」と滝太郎は背《せなか》をお雪に差向ける。途端に凄《すさま》じい音がして、わっという声が沈んで聞える。
「お雪! お雪。」
学士も我を忘れて助《たすけ》を呼んだのである。
「あれ、若様、拓さんは、拓さんは目が見えません。」
「うむ、」
「助けて下さい、拓さんは目が見えません。」
「二人じゃあ不可《いけ》ねえや、」
「内の人を、私の夫を。」
「おいら、お前でなくっちゃあ、」
「厭《いや》、厭ですよ、厭ですよ、」と、捕うる滝太郎の手を摺抜ける。
「だって、汝《おめえ》の良人《ていしゅ》なら、おいらにゃあ敵《かたき》だぜ。」
「私は死んでしまいます。」
「へへ、駄目だい、」と唾《つば》するがごとく叫んで、滝太郎は飛んで拓に来た。
「滝だ、大丈夫だ。」
「お雪には義理があるんです、私に構わず、」といって、学士は身を退《すさ》って壁にひたりと背《せな》をあてた。
「あれ、拓さん、」とばかり身を急《あせ》るお雪が膝は、早や水に包まれているのである。
「いや、いけない、」と学士は決然として言放った。
滝太郎は真中《まんなか》に立って、件《くだん》の鋭い目に左右を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して瞳を輝かした。
「ええ二人ともつかまんな。構うこたあねえ、可《い》けなけりゃ皆《みんな》で死のう。」
雨は先刻《さっき
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