ていた。大鷲は今の一撃に怒《いかり》をなしたか、以前のごとく形も見えぬまでは遠く去らず、中空に凧《いかのぼり》のごとく居《すわ》って、やや動き且つ動くのを、屹《きっ》と睨《にら》んでは仰いで見たが、衝《つ》と走っては打仰ぎ、走っては打仰ぎ、ともすれば咲き満ちたうつぎ[#「うつぎ」に傍点]の花の中に隠れ、顕れ、隠れ、顕れて、道を求めて駆けるのを、拓は追慕うともなく後を跟《つ》けて、ややあって一座の巌石、形|蟇《ひきがえる》の天窓《あたま》に似たのが前途《ゆくて》を塞《ふさ》いで、白い花は、あたかも雪間の飛々に次第に消えて、このあたりでは路とともに尽きて見えなくなる処に来た。
もとより後《うしろ》は見も返らず、少年はお雪を抱いたまま、ひだを蹈み、角に縋《すが》って蝙蝠《こうもり》の攀《よ》ずるがごとく、ひらりひらりと巌《いわお》の頂に上った。この巌の頂は、渠《かれ》を載せて且つ歩《あゆみ》を巡らさしむるに余《あまり》あるものである。
時に少年の姿は、高く頭上の風に鷲を漾《ただよ》わせ、天を頂いて突立《つった》ったが、何とかしけむ、足蹈《あしぶみ》をして、
「滝だ! 滝だ!」と言って喜びの色は面《おもて》に溢れた。ただ聞く、どうどうと水の音、巌もゆらぐ響《ひびき》である。
少年はいと忙《せわ》しく瞳を動かして、下りるべき路を求めたが、衝《つ》と端に臨んで、俯向《うつむ》いて見る見る失望の色を顕《あらわ》した。思わず嘆息をして口惜しそうに、
「どこまで祟《たた》るんだな、獣《けだもの》め。」
五十八
少年を載せた巌は枝に留まった梟《ふくろ》のようで、その天窓《あたま》大きく、尻ッこけになって幾千仭《いくせんじん》とも弁《わきま》えぬ谷の上へ、蔽《おお》い被《かぶ》さって斜《ななめ》に出ている。裾を蹈んで頭を叩けば、ただこの一座山のごとき大奇巌は月界に飛ばんず形。繁れる雑種の喬木《きょうぼく》は、梢《こずえ》を揃えて件《くだん》の巌《いわ》の裾を包んで、滝は音ばかり森の中に聞えるのであった。頂なる少年は、これを俯《ふ》し瞰《みおろ》して、雲の桟橋《かけはし》のなきに失望した。しかるに倒《さかさま》に伏して覗《のぞ》かぬ目には見えないであろう、尻ッこけになった巌《いわお》の裾に居て、可怪《あやし》い喬木の梢なる樹々の葉を褥《しとね》として、大胡坐《おおあぐら》を組んだ、――何等のものぞ。
面赭《かおあか》く、耳|蒼《あお》く、馬ばかりなる大きさのもの、手足に汚れた薄樺色《うすかばいろ》の産毛のようで、房々として柔《やわら》かに長い毛が一面の生いて、人か獣《けだもの》かを見分かぬが、朦朧《もうろう》としてただ霧を束《つか》ねて鋳出《いだ》したよう。真俯向《まうつむき》になって面《おもて》を上げず、ものとも知らぬ濁《だ》みたる声で、
「猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、」と支干《えと》を数えて呟《つぶや》きながら、八九寸伸びた蒼黒い十本の指の爪で、件《くだん》の細々とした、突けば折れるばかりの巌の裾をごしごしごしごしと掻※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《かきむし》る。時に手を留《とど》めてその俯向いた鼻先と思う処を、爪をあつめて巌の欠《かけ》を掘取ると見ると、また掻きはじめた。その爪の切入るごとに、巌はもろくぼろぼろと欠けて、喰い入り喰い入り、見る内に危《あやう》く一重の皮を残して、まさに断切《ちぎ》れて逆さまに飛ばんとする。
あれあれ、とばかりに学士は目も眩《く》れ、心も消え、体に悪熱《あくねつ》を感ずるばかり、血を絞って急を告げようとする声は糸より細うして己《おの》が耳にも定かならず。可恐《おそろ》しきものの巌を切る音は、肝先《きもさき》を貫いて、滝の響《ひびき》は耳を聾《ろう》するようであった。
羽撃《はばたき》聞えて、鷲は颯《さっ》と大空から落ちて来た。頂高く、天近く、仰げば遥かに小さな少年の立姿は、狂うがごとく位置を転じて、腕白く垂れたお雪の手が、空ざまに少年の頭《かしら》に縋ると見た。途端に巌は地を放れて山を覆えるがごとく、二人の姿はもんどり打って空に舞い、滝の音する森の中へ足を空に陥《おちい》ったので、あッと絶叫したが、理学士は愕然《がくぜん》として可恐《おそろし》い夢から覚めたのである。
拓は茫然自失して、前《さき》のまま机に頬杖を突いた、その手も支えかねて僵《たお》れようとしたが、ふと闇《やみ》のままうとうとと居眠ったのに、いつ点《つ》いたか、見えぬ目に燈《ともしび》が映えるのに心着いた。
確かに傍《かたわら》に人の気勢《けはい》。
五十九
「誰だ、」と極めて落着いて言ったが、声は我ながら異常なものであ
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