は屹《きっ》となって、たちまち顔色を変えたのである。
 理学士はこの時少年のいうことを聞こうとして、思わず堅唾《かたず》を飲んだ。
 夢中の美少年に憤った色が見え、
「おいら、島野とは違うぜ。今までな、おい、欲《ほし》い思ったものは取らねえこたあねえ、しようと思ったことをしねえこたあなかったんだ。可いじゃあないか、不可《いけ》ねえッて? 不可ねえか。うむそうか、可いや、へん、おいら詰《つま》らねえことをしたぜ。」
 と投げるようにいって、大空を恍惚《うっと》りと瞶《みつ》めた風情。取留めのない夢の想《おもい》で、拓はこの時少年がお雪に向ってなす処は、一つ一《びと》つ皆思うことあって、したかのごとく感じられて、快活かくのごとき者が、恋には恐るべき神秘を守って、今までに秋毫《しゅうごう》も、さる気色のなかったほど、一層大いなる力あることを感じて、愕然《がくぜん》とした。同時に今までは、お雪を救うために造られた、巌《いわお》に倚《よ》る一個白面、朱唇、年少、美貌《びぼう》の神将であるごとく見えたのが、たちまち清く麗しき娘を迷わすために姿を変じた、妄執の蛇であると心着いたが、手も足も動かず、叫ばんとする声も己《おの》が耳には入《い》らなかった。
 鷲がその三回目の襲撃を試みない瞬間、白い花も動かず、二人は熟《じっ》として石に化したもののように見えた。やがて少年は袂を探って、一本《ひともと》の花を取出した。学識ある理学士が夢中の目は、直ちにそれを黒百合の花と認めたのである。
 これがためにこそ餓えたり、傷付いたれ、物怪《もののけ》ある山に迷うたれ。荒鷲には襲わるる、少年の身に添えて守っていたと覚ゆるのを、掴《つか》むがごとく引出《ひきいだ》して、やにわに手を懸けて※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り棄てようとした趣であった。けれども、お雪が物いいたげに瞳を動かして、衝《つ》と胸を抱いて立ったのを、卑《いやし》むがごとく、嘲《あざ》けるがごとく、憎むがごとく、はた憐《あわれ》むがごとくに熟《じっ》と見て、舌打して、そのまま黒百合をお雪の手に与えると斉《ひと》しく、巌を放れてすっくと立って、
「不可《いけ》ねえや、お前《めえ》良人《ていし》があるんなら、おいら一所に死ぬのは厭だぜ。じゃあ、おい勝手にしねえ。」
 といい棄てて、身を飜すとたちまち歩き去った。

       五十七

 我が手働かず、足動かず、目はただ天涯の一方に、白き花に埋《うず》もれたお雪を見るばかり。片手をもって抱き得るような、細い窶《やつ》れた妻の体を、理学士はいかんともすることならず。
 お雪は黒百合の花を捧げて、身に影も添わず、淋しく心細げに彳《たたず》んでいたが、およそ十歩を隔てて少年が一度振返って見た時、糸をもて操らるるかと二足三足後を追うたが、そのまま素気《そっけ》なく向うを向いてしまったので、力無げに歩《あゆみ》を停《とど》めた、目には暗涙を湛《たた》えたり。
 やがて後姿に触れて、ゆさゆさと揺《ゆす》ぶられる、のりうつぎ[#「のりうつぎ」に傍点]の花の梢《こずえ》は、少年を包んで見えなくなった。
 これをこそは待ち得たれ、黒い星一ツ遥《はる》か彼方《かなた》の峰に現れたと見ると、風に乗って矢のごとくに颯《さっ》と寄せた。すわやと見る目の前の、鷲の翼は四辺《あたり》を暗くした中に、娘の白い膚《はだえ》を包んで、はたと仰向《あおむけ》に僵《たお》れた。
「あれえ、」
 叫ぶに応じて少年は、再び猛然として顕《あらわ》れたが、宙を飛んで躍りかかった。拳《こぶし》を握って高く上げると、大鷲の翼を蹈《ふ》んで、その頸《うなじ》を打ったのである。
「畜生、おれが目に見えねえように殺せやい!」
 と怒気満面に溢《あふ》れて叱咤《しった》した。少年はほとんど身を棄てて、その最後の力を尽したのであろう。
 黒雲一団|渦《うずま》く中に、鷲は一双の金の瞳を怒《いか》らしたが、ぱっと音を立てて三たび虚空《こくう》に退いた。二ツ三ツ四ツ五ツばかり羽は斑々として落ちて、戦《たたかい》の矢を白い花の上に残した。
 少年が勇威|凜々《りんりん》として今大鷲を搏《う》った時の風采は、理学士をして思わず面《おもて》を伏せて、僵《たお》れたる肉一団何かある、我が妻をもてこの神将に捧げんと思わしめたのである。
 かくして少年ははた掌《たなそこ》を拍《う》って塵《ちり》を払ったが、吐息を吐《つ》いて、さすがに心|弛《ゆる》み、力落ちて、よろよろと僵れようとして、息も絶々《たえだえ》なお雪を見て、眉を顰《ひそ》めて、
「ちょッ、しようのねえ女だな。」
 やがて手をかけて、小脇に抱上げたが、お雪の黒髪は逆《さかさま》に乱れて、片手に黒百合を持ったのを胸にあてて、片手をぶらりと垂れ
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