》に止《や》んで、黒雲《くろくも》の絶間《たえま》に月が出ていた。湯の谷の屋根に処々《ところどころ》立てた高張の明《あかり》が射《さ》して、眼《ま》のあたりは赤く、四方へ黒い布を引いて漲《みなぎ》る水は、随処、亀甲形《きっこうがた》[#「亀甲形」は底本では「亀申形」]に畝《うね》り畝り波を立てて、ざぶりざぶりと山の裾へ打当てる音がした。拓を背にし、お雪を頸《うなじ》に縋らせて、滝太郎は面《おもて》も触《ふ》らず件《くだん》の洞穴《ほらあな》を差して渡ったが、縁を下りる時、破屋《あばらや》は左右に傾いた。行くことわずかにして、水は既に肩を浸した。手を放すなといって滝太郎が水を含んで吐いた時、お雪は洪水《みず》の上に乗上って、乗着いて、滝太郎に頬摺したが、
「拓さん堪忍して。」
声を残して、魚《うお》の跳《おど》るがごとく、身を飜《ひるがえ》して水に沈んだ。遥かにその姿の浮いた折から、荒物屋の媼《ばば》なんど、五七人乗った小舟を漕寄《こぎよ》せたが、流れて来る材木がくるりと廻って舷《ふなばた》を突いたので、船は波に乗って颯《さっ》と退《ひ》いた。同時に滝太郎の姿も水に沈んだが、たちまち水烟《みずけぶり》を立てて抜手を切ったのである。拓とともに助かったのは言うまでもない。
その夜《よ》湯の谷で溺《おぼ》れたのが十七人、……お雪はその中《うち》の一人であった。
水は一晩で大方|退《ひ》いて、翌日《あくるひ》は天日快晴。四十物町はちょろちょろ流れで、兵粮を積んだ船が往来《ゆきき》する。勇美子は裾を引上げて濁水に脛《はぎ》を浸しながら、物珍らしげに門の前を歩いていた。猟犬ジャムはその袖の下を、ちゃぶちゃぶと泳ぎ、義作は夕立の背《せな》を干して、傍《かたわら》に立っていた、水はやや駒の蹄《ひづめ》を没するばかり。それでも瀬を造って、低い処へ落ちる中に、流れて来たものがある、勇美子が目敏《めざと》く見て、腕捲《うでまく》りをして採上げたのは、不思議の花であった。形は貝母《ばいも》に似て、暗緑帯紫の色、一つは咲いて花弁《はなびら》が六つ、黄粉《こうふん》を包んだ蘂《しべ》が六つ、莟《つぼみ》が一つ。
数年の後《のち》、いずこにも籍を置かぬ一|艘《そう》の冒険船が、滝太郎を乗せて、拓お兼|等《ら》が乗組んで、大洋の波に浮《うか》んだ時は、必ずこの黒百合をもって船に号《なず》けるのであろう。
[#地から1字上げ]明治三十二(一八九九)年六〜八月
底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店
1941(昭和16)年12月25日第1刷発行
※底本の誤植は親本を参照して直しました。
入力:もんむー
校正:門田裕志
2005年3月16日作成
2007年9月6日修正
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