を払って、さし翳《かざ》した笠を投出すと斉《ひと》しく、七分三分に裳《もすそ》をぐい。
「してこいなと遣附《やッつ》けろ、や、本雨だ、威勢が可いぜえ。」
五十三
開戸から慶造が躍出したのを、拓は縁に出て送ったが、繁吹《しぶき》を浴びて身を退《ひ》いて座に戻った、渠《かれ》は茫然として手を束《つか》ぬるのみ。半《なかば》は自分の体のごときお雪はあらず、余《あまり》の大降に荒物屋の媼《ばば》も見舞わないから、戸を閉め得ず、燈《ともし》を点《つ》けることもしないで、渠はただ滝のなかに穴あるごとく、雨の音に紛れて物の音もせぬ真暗《まっくら》な家《や》の内に数時間を消した。夜《よ》も初更《しょこう》を過ぎつと覚しい時、わずかに一度やや膝を動かして、机の前に寄ったばかり。三日の内にもかばかり長い間降詰めたのは、この時ばかりであった。おどろおどろしい雨の中に、遠く山を隔てた隣国の都と思うあたり、馳違《はせちが》う人の跫音《あしおと》、ものの響《ひびき》、洪水の急を報ずる乱調の湿った太鼓、人の叫声《さけびごえ》などがひとしきりひとしきり聞えるのを、奈落の底で聞くような思いをしながら、理学士は恐しい夢を見た。
こはいかに! 乾坤別有天《けんこんべつにてんあり》。いずこともなく、天|麗《うらら》かに晴れて、黄昏か、朝か、気|清《すず》しくして、仲秋のごとく澄渡った空に、日も月の形も見えない、たとえば深山《みやま》にして人跡《ひとあと》の絶えたる処と思うに、東西も分かず一筋およそ十四五町の間、雪のごとく、霞のごとく敷詰めた白い花。と見ると卯《う》の花のようで、よく山奥の溪間《たにあい》、流《ながれ》に添うて群《むれ》生ずる、のりうつぎ(サビタの一種)であることを認めた
時にそよとの風もなく、花はただ静かに咲満ちて、真白《まっしろ》な中に、ここかしこ二ツ三ツ岩があった。その岩の辺りで、折々花が揺れて、さらさらと靡《なび》くのは、下を流るる水の瀬が絡まるのであろう、一鳥声せず。
理学士は、それともなく石滝の奥ではないかと、ふと心着いて恍惚《うっとり》となる処へ、吹落す疾風《はやて》一陣。蒼空《あおぞら》の半《なかば》を蔽《おお》うた黒い鳥、片翼およそ一間余りもあろう[#「あろう」は底本では「あらう」]と思う鷲《わし》が、旋風《つむじ》を起して輪になって、ばッと落して、そのうつぎの花に翼を触れたと見ると、あッという人の叫声。途端に飜って舞上った時に、粉吹雪《こふぶき》のごとくむらむらと散って立つ花片《はなびら》の中から、すっくと顕《あらわ》れた一個の美少年があった。捲《まく》り手《で》の肱《ひじ》を曲げて手首から、垂々《たらたら》と血が流れる拳《こぶし》を握って、眦《まなじり》の切上った鋭い目にはッたと敵を睨《にら》んだが、打仰ぐ空次第に高く、鷲は早や光のない星のようになって消えた。
少年は、熟《じっ》とその勁敵《けいてき》の逸し去ったのを見定めた様子であったが、そのまま滑《なめら》かな岩に背《せな》を支えて、仰向《あおむ》けに倒れて、力なげに手を垂れて、太《いた》く疲れているもののようである。
やや有って、今少年が潜んでいた同じ花の下から密《そっ》と出たのはお雪であった。黒髪は乱れて頸《えり》に縺《もつ》れ頬に懸《かか》り、ふッくりした頬も肉《しし》落ちて、裾《すそ》も袂《たもと》もところどころ破れ裂けて、岩に縋《すが》り草を蹈《ふ》み、荊棘《いばら》の中を潜《くぐ》り潜った様子であるが、手を負うた少年の腕《かいな》に縋《すが》って、懐紙《ふところがみ》で疵《きず》を押えた、紅《くれない》はたちまちその幾枚かを通して染まったのである。
お雪は見るも痛々しく、目も眩《く》れたる様《さま》して、おろおろ声で、
「痛みますか、痛みますか。」というのが判然《はっきり》聞える。
眠れるか、少年はわずかにその頭《かしら》を掉《ふ》ったが、血は留《とま》らず、圧《おさ》えた懐紙は手にも耐《たま》らず染まったので、花の上に棄てた。一点紅、お雪は口を着けてその疵口《きずぐち》を吸ったのである。
唇が触れた時、少年は清《すず》しい目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って屹《きっ》と見たが、また閉じて身動きもせず、手は忘れたもののようにお雪がするままに任せていた。
両人が姿を見ると、我にもあらず、理学士が肉《ししむら》は動いたのである。
五十四
しばらくするとお雪は帯の端を折返して、いつも締めている桃色の下〆《したじめ》を解いて、一尺ばかり曳出《ひきだ》すと、手を掛けた衣《きぬ》は音がして裂けたのである。
その切《きれ》で疵《きず》を巻いて、放すと、少年はほとんど無意識のごとく手を曲げて胸に齎《も
前へ
次へ
全50ページ中44ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング