の役か、いざといって船出をする時、船を動かすのは父上《おとっさん》の役、錨《いかり》を抜くのは慶造貴様の職だ。皆《みんな》に食事をさせるのはお兼じゃあないか。水先案内もあるだろう、医者もあろう、船の行《ゆ》く処は誰が知ってる、私だ、目が見えないでも勝手な処へ指揮《さしず》をしてやる、おい、星一ツない暗がりでも燈明台なんぞあてにするには及ばんから。」
と説き得て、拓は片手を背後《うしろ》へついて、悠然として天井を仰いだ。
「難有《ありがと》[#ルビの「ありがと」は底本では「ありがた」]うござります。おお、小主公《わかだんな》。」と、慶造は思わず縁側に額をつけた。
五十二
「いやもう久《ひさし》ぶりで癇癪《かんしゃく》をお起しなすって、こんな心持の可いことはござりません。私《わたくし》ゃ変な癖で、大旦那と貴方の癇癪声さえ聞きゃ、ぐっとその溜飲《りゅういん》の下りますんで。へい、それで私《わたくし》も安心でござります、ついお心持を丈夫にしようとッて前《さき》のように太平楽は並べましたものの、私《わたくし》も涙が出ます、実は耐《こら》えておりました。」
慶造は情《なさけ》なさそうに笑いながら、
「大旦那様はそんなにも有仰《おっし》ゃりますまいが、貴方の御病気の様子を奥様がお聞きなすって御覧《ごろう》じろ、大旦那様の一件で気病《きやみ》でお亡《なくな》り遊ばしたようなお優しい、お心弱い方がどんなにお歎きでござりましょう。今じゃあ仏様で、草葉の蔭から、かえって小主公《わかだんな》をお守りなすっていらっしゃるんで、その可愛い貴方のためにそういう処へ参りました娘なら、地獄だって、魔所だって、きっとお守りなさいましょうから、御心配にゃあ及びますまい。望《のぞみ》の黒百合の花を取ってやがて戻って参りましょうが、しかし打遣《うっちゃ》っちゃあおかれません、貴方に御内縁の嬢さんなら、私《わたくし》にゃ新夫人様《にいおくさま》。いや話は別で、そうかといって見ております訳ではござりません。殊に千破矢様というのがその後へおいでなすったという風説《うわさ》、白魚の姉御がいった若様なんで、味方の大将を見殺《みごろし》にはされません。もっとも直ぐにその日、一昨日《おととい》でござりますな、少《すくな》からぬ係合《かかりあい》の知事様の嬢さんも、あすこの茶屋まで駈着《かけつ》けましたそうで。あれそれと小田原をやってる処へ、また竜川とかいう千破矢の家の家老が貴方、参ったんだそうで、御主人の安否は拙者がか何かで、昔取った杵柄《きねづか》だ、腕に覚えがありますから、こりゃ強うがす、覚悟をして石滝へ入ろうとすると、どうでございましょう。四五間しかないそうですが、泥水を装《も》って川へ一時に推出して来た、見る間に杭《くい》を浸して、早や橋板の上へちょろちょろと瀬が着く騒《さわぎ》。大変だという内に、水足が来て足を嘗《な》めたっていうんです。それがために皆《みんな》が一雪崩《ひとなだれ》に、引返《ひっかえ》したっていいますが、もっとも何だそうで、その前《さき》から風が出て大降になりました様子でござりますな。」
「ああ、その事は昨日《きのう》知事の内から、道とかいう女中が来て私にいった。ちょいちょい見舞ってくれるんだ、今日もつい前《さき》に帰ったから聞いているよ。」
「それからはまるで三日、富山中は真暗《まっくら》で、止《や》むかと思うと滝のように降出します。いや神通が切れた、郷屋敷|田圃《たんぼ》の堤防《つつみ》が崩れた、牛の淵《ふち》から桜木町へ突懸《つッかか》る、四十物町が少し引くかと思うと、総曲輪が湖《うみ》だという。それに、間を置いちゃあ大雨ですから市中は戦《いくさ》です。壁が壊《くず》れたり、材木が流れたりしますんですが、幸いまだ家が流れる程じゃあないので、ちょうど石滝の方は橋が出たという噂ですから、どうにか路は歩行《ある》かれましょう。お目に懸《かか》って、いよいと貴方でございます日にゃあ、こっちの嬢さんは御主人なり、一方にゃあ姉御がいった若様もいらっしゃる。どうでございましょう、この辺は水は大丈夫でございますか、もしそれが心配だと貴方ばかりではお目の御不自由、と打遣《うっちゃ》っちゃあ参られませんが。」
「慶造、六十年近くもここに居る荒物屋の婆さんがいうんだ、水には大丈夫だそうだから、私には構わんでも可い。」
心安く言ったので、慶造は雀躍《こおどり》をして、
「それじゃあ後髪を引かれねえで、可うがす。お二人の先途を見届けて参りましょう。小主公《わかだんな》お気を着けなすって、後《のち》ともいわず直ぐに、」
といった。折からの雨はまた篠《しの》を束《つか》ねて、暗々たる空の、殊に黄昏《たそがれ》を降静める。
慶造は眉を濡らす雫《しずく》
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