たら》して咽喉《のど》のあたりへ乗せたが、疲れてすやすやと睡《ねむ》った様子。顔のあたり、肩のあたり、はらはらと、来て、白く溜《たま》って、また入乱れて立つは、風に花片《はなびら》が散るのではない、前《さき》に大鷲がうつぎの森の静粛を破って以来、絶えず両人《ふたり》の身の辺《あたり》に飛交う、花の色と等しい、小さな、数知れぬ蝶々で。
 お雪は双の袂の真中《まんなか》を絞って持ち、留まれば美しい眉を顰《ひそ》める少年の顔の前を、絶えず払い退《の》け、払い退けする。その都度|死装束《しにしょうぞく》として身装《みなり》を繕ったろう、清い襦袢《じゅばん》の紅《くれない》の袂は、ちらちらと蝶の中に交って、間《ま》あれば、おのが肩を打ち、且つ胸のあたりを払っていたが、たちまち顔を顰《しか》めて唇を曲げた。二ツ三ツ体を捩《よ》ったが慌《あわただ》しい、我を忘れて肌を脱いだ、単衣《ひとえ》の背《せな》を溢《こぼ》れ出《い》づる、雪なす膚《はだえ》にも縺《もつ》るる紅《くれない》、その乳《ち》のあたりからも袂からも、むらむらとして飛んだのは、件《くだん》の白い蝶であった。
 我身|半《なかば》はその蝶に化《け》したるかと、お雪は呆れ顔をして身内を見たが、にわかに色を染めて密《そッ》と少年を見ると、目を開かず。
 お雪は吻《ほっ》と息を吐《つ》いて、肌を納めようとした手を動かすに遑《いとま》なく、きゃッといって平伏した。声に応じて少年はかッぱと刎《は》ね起きて押被《おっかぶ》さり、身をもってお雪を庇《かば》う。娘の体は再び花の中に埋《うず》もれたが、やや有って顕《あらわ》れた少年の背《せな》には、凄《すさま》じい鈎形《かぎがた》に曲った喙《くちばし》が触れた。大鷲は虚を伺って、とこうの隙《すき》なく蒼空から襲い来《きた》ったのであった。
 倒れながら屹《きっ》とその面《おもて》を上げると、翼で群蝶を掻乱《かきみだ》して、白い烟《けぶり》の立つ中で、鷲は颯《さっ》と舞い上るのを、血走った目に瞶《みつ》めながら少年は衝《つ》と立った。思わず胸に縋るお雪の手を取って扶《たす》けながら、行方を睨《にら》むと、谷を隔てて遥《はるか》に見えるのは、杉ともいわず、栃《とち》ともいわず、檜《ひのき》ともいわず、二抱《ふたかかえ》三抱《みかかえ》に余る大喬木《だいきょうぼく》がすくすく天をさして枝を交えた、矢来のごとき木間《このま》々々には切倒したと覚しき同じほどの材木が積重なって、横《よこた》わって、深森の中《うち》自《おのず》から径《こみち》を造るその上へ、一列になって、一ツ去れば、また一ツ、前なるが隠るれば、後なるが顕れて、ほとんど間断なく牛が歩いた。いずれも鼻頭《はなづら》におよそ三間|余《あまり》の長綱をつけて、姿形も森の中に定かならず、牛曳《うしひき》と見えるのが飛々に現れて、のッそり悠々として通っていたのであるが、今|件《くだん》の大鷲が、風を起して一翼に谷を越え、その峰ある処、件の森の中へあからさまに入ったと思うと、牛は宙に躍って跳狂《はねくる》うのが、一ツならず、二ツならず、咄嗟《とっさ》の間《かん》に眼《まなこ》を遮って七ツ数えると止《や》んだ。
「しっかりしねえ、もう可いぜ。」といって、少年は手を放した。
 お雪は血の気を失った顔を、恐る恐る上げて仰いだが、少年を見ると斉《ひと》しく身《み》を顫《ふる》わした。
「あらまたお背中を、ちょいと大変でございますよ。」
「可いッてことよ、こればかしが何だ。」といったが、あわれ身を支えかねたか、またどっさりと岩に腰を掛ける。
 お雪は失心の体《てい》で姿を繕うこともせず。両膝を折って少年の足許《あしもと》に跪《ひざまず》いて、
「この足手纏《あしてまとい》さえございませねば、貴方お一方はお助《たすか》り遊ばすのに訳はないのでございます。」
 と、いう声も身も顫えたのである。

       五十五

「私はどういたしましょう、花も取って頂きました上に、この山に入りましてから貴方ばかり酷《ひど》い目にお逢わせ申して、今までに、生命《いのち》をお取られ遊ばすかと思いましたことが幾たびあったでございましょう。体も疵《きず》に遊ばして庇《かば》って下さいますから、勿体ない、私は一ヶ所|擦剥《すりむ》きました処もございません。たとい前《さき》の世の約束事でも、これまでに御恩を受けますことはないのでございます。どうぞ私を打遣《うっちゃ》ってお逃げなすって下さいまし、お願《ねがい》でございます。貴方にこうして頂きますより殺されます方がどんなに心安いか分りません。失礼ながらお可哀そうで、片時もこんな恐《こわ》い処に貴方をお置き申したくはございませんから。」と、嗚咽《おえつ》していう声も絶断《たえだえ》。
 少年はか
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