ようだけれども、手応《てごたえ》があったから、占めたと、豪《えら》くなる途端にお前。」
 義作は左の耳から頬へかけて掌《てのひら》ですぺりと撫でて、仕方を見せ、苦笑《にがわらい》をして、
「片耳ざくり、行って御覧《ごろう》じろ、鹿が角を折ったように片一方まるで形なしだ。呻吟《うめ》くのはそのせいさ、そのせいであの通りだ。急所じゃがあせんッて、私《わっし》もそう言ったんで、島野さんも、生命《いのち》にゃあ別条はないっていうけれどね、早く手当をしてくれ、破、破、破傷風になるって騒ぐんで、ずきりずきりと脈を打っちゃあ血が湧《わ》くのが肝《きも》にこたえるって※[#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]《もが》いてね、真蒼《まっさお》です。それでも見得があるから、お前、松明《たいまつ》をつけて行って見ろ、天狗の片翼《かたつばさ》を切って落とした、血みどろになった鳶《とび》の羽のようなものが落ちてたら、それだと思えなんて、血迷ってまさ。大方滝太郎様にやられたんでしょう、可い気味だ、ざまあ! はははは。やあ、苦しがりやあがって、島野さんの首っ玉へ噛《かじ》りついた。あの人がまた、血を見ると癲癇《てんかん》を起すくらい臆病《おくびょう》だからね。や、慌ててら、慌ててら、それに一張羅だ、堪《たま》ったもんじゃあねえ。躍ってやあがる、畜生、おもしれえ!」とばかりで雨を潜《くぐ》って、此奴《こいつ》人の気も知らず剽軽《ひょうきん》なり。
「道、滝さんが怪我をなさりやしないのか。」
「さようでございますね、」と、顔と顔。

       五十

「小主公《わかだんな》お久振でござりました、よく私《わたくし》の声にお覚えがござりますな。へい、貴方《あなた》がお目の悪いことも、そのために此家《ここ》の女《むすめ》が黒百合を取りに参りましたことも、早いもので、二日前のことだそうですが、もう市中で評判をいたしております。もっともことのついでに貴方のお噂がござりませんと、三年|越《ごし》お便《たより》は遊ばさず、どこに隠れてお在《いで》なさりますか、分りませんのでござりました。目がお見えなさらないというだけは不吉じゃあござりましたが、東京の方だというし、お年の比《ころ》なり御様子なり、てっきり貴方に違いないと、直ぐこちらへ飛んで参り、向うのあの荒物屋で聞いてお尋ね申しました。小主公《わかだんな》、何は措《お》きまして御機嫌|宜《よろ》しく。」
「慶造、何につけても、お前達にもう逢いたくはなかったよ。」
 と若山は花屋の奥に端近く端座して、憂苦に窶《やつ》れ、愁然《しゅうぜん》として肩身が狭い。慶造と呼ばれたのは、三十五六の屈竟《くっきょう》な漢《おのこ》、火水に錬《きた》え上げた鉄造《くろがねづくり》の体格で、見るからに頼もしいのが、沓脱《くつぬぎ》の上へ脱いだ笠を仰向《あおむ》けにして、両掛の旅荷物、小造《こづくり》なのを縁に載《の》せて、慇懃《いんぎん》に斉眉《かしず》く風あり。拓の打侘《うちわ》びたる言《ことば》を聞いて、憂慮《きづか》わしげにその顔を見上げたが、勇気は己《おの》が面《おもて》に溢《あふ》れつつ、
「御心中お察し申しますが、人間は四百四病の器、病疾《やまい》には誰だって勝たれませぬ、そんなに気を落しなさいますな。小主公《わかだんな》、良《い》いお音信《たより》がござりますぜ、大旦那様もちょうどこの春、三月が満期で無事に御出獄でござりました。こちらでも新聞がござりますなら、疾《と》くに御存じでござりましょう。」
 若山は色を動かして、
「そうか、私はまた何も彼《か》も思切って、わざと新聞なぞは耳に入れないように勤めているから、そりゃちっとも知らずに居た、御無事に。……そうかい、けれども慶造、私はお目にかかられまい。」と額に手を翳《かざ》して目を蔽《おお》うたのである。
「なぜでございます、目をお損いになりましたせいでござりますか。」
「むむ、何それもあるけれども、私が考《かんがえ》で、家を売り、邸を売り、父様《おとっさん》がいらっしゃる処も失くなしたし。」
「それは御心配ござりません、貴下《あなた》が放蕩《ほうとう》でというではなし、御望《おのぞみ》がおあり遊ばしたとはいえ、大旦那様が迷惑をお懸け遊ばした方々の債主へ、少しずつお分けになったのでござりますもの、拓はよくしたとおっしゃったのを、私《わたくし》が直《じき》に承わりましてござります。」
「そして今どこにいらっしゃるんだな。」
「へい、組合の方でお引取申しました。海でなり、陸でなり、一同旗上げをいたします迄はしばらくおかくれでござります。貴方もこういう処はお立退《たちのき》になって、それへ合体が宜《よろ》しゅうござりましょう。ちょうどこの国へ参りがけに加州を通りまして、あすこであ
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