《べっとう》も、引張凧《ひっぱりだこ》になった艶福家《えんぷくか》島野氏も、女だから手も着けられない。
「留めておやり。道や、」
「ちょいと、串戯《じょうだん》じゃあないよ、お前様方《まえさんがた》はどうしたもんです。これお放し、あれさ、お放しというに、両方とも恐しい力だ。こっちはお嬢様がそれどころじゃあないのだのに、お前さんまでがお気を揉《も》ませ申すんだよ。可《いい》加減におし、あれさ、可いやね、そんなら私が素裸《まッぱだか》になって着物を地《つち》に敷いて、その上へ貴女《あなた》を休ませ申すまでも、お前達の世話にゃあならない、どちらへも休みはしないからそう思っておくれ。」とすっきりいった。両人《ふたり》は左右に分れたが、そのまま左右から、道の袖を捉《つか》まえて、ひしと縋《すが》って泣出したのである。道は弱って手を束《つか》ねてぼんやりとするのを見て、勇美子は早やばらばらと音のする雨も構わず、手を両人《ふたり》の背《せな》にかけて、蔵屋と、鍵屋と、路傍《みちばた》に二軒ならんだのに目を配って、熟《じっ》と見たまい、
「二人とも聞きな、可いことを教えてあげよう、しょッちゅうそんなことをしていては、どちらにも好《い》いことはないよ。こうおし、お前の処のお客は註文のあった食物をお前の処から持運ぶし、お前の処のお客はお前の店から持って行くことにして、そして一月がわりにするの。可いかい、怨《うら》みっこ無しに冥利《みょうり》の可い方が勝つんだよ。」
「おや、お嬢様、それでは客と食物を等分に、代り合っていたします。それでいてお茶代が別にあったり何かすると、どちらが何だか分らないで、怨《うらみ》はいつの間にか忘れてしまいましょう。なるほどその事《こっ》たよ。さあ、二人とも、手を拍《う》ったり。」
「やあ、占めろ。」といって、義作は景気よく手を拍った。女《むすめ》は両人《ふたり》、晴やかな勇美子の面《おもて》を拝んだ。
折柄|荒増《あれまさ》る風に連れて、石滝の森から思いも懸けず、橋の上へ真黒《まっくろ》になって、転《こ》けつ、まろびつ、人礫《ひとつぶて》かと凄《すさま》じい、物の姿。
四十九
あれはと見る間に早や近々《ちかぢか》と人の形。橋の上を流るるごとく驀直《まっしぐら》に、蔵屋へ駆込むと斉《ひと》しく、床几《しょうぎ》の上へ響《ひびき》を打たせて、どたりと倒れたのは多磨太である。白墨狂士は何とかしけむ、そのままどたどたと足を挙げて、苦痛に堪えざる身悶《みもだえ》して、呻吟《うめ》く声|吠《ほ》ゆるがごとし。
鍵屋の一群《ひとむれ》はこれを見て棄て置かれず、島野に義作がついて店前《みせさき》へ出向いて、と見ると、多磨太は半面べとり血になって、頬から咽喉《のど》へかけ、例の白薩摩《しろさつま》の襟を染めて韓紅《からくれない》。
「君、どうしたんです。」と島野は驚いたが、薄気味の悪さうに密《そっ》と手をとって、眉を顰《ひそ》めた。
鍵屋では及腰《およびごし》に向うを伺い、振返って道が、
「あれ、怪我をしておりますようです、どうしたんでございましょう。」
勇美子も夜会結びの鬢《びんずら》を吹かせ、雨に頬を打たせて厭《いと》わず、掛茶屋の葦簀《よしず》から半ば姿をあらわして、
「石滝から来たのじゃあなくって。滝さんとお雪はどうしたろうね、」とこれは心も心ならない。道はずッと出て手招《てまねぎ》をした。
「義作さん、おおい、ちょいとお出《いで》よ、お出よ。」
「へッ、」と云って、威勢よく飛んで帰る。
「何だね、どうしたのさ、あれ大変|呻吟《うめ》くじゃあないか。」
「え、雀部さんの多磨太なんで、から仕様が無《ね》えんです。何だそうで、全体|心懸《こころがけ》が悪うがすよ。ありゃね、しょッちゅう、あの花売を追懸《おっかけ》廻していたんで、今朝も、お前《めえ》、後を跟《つ》けて石滝へ入ったんだと。え何、力になろうの、助けてやろうという贅沢《ぜいたく》なんじゃあねえんでさ。お道どん、お前の前《まい》だけれどもう思い切ってるんだからね、人の入《へえ》らねえ処だし、お前、対手《あいて》はかよわいや。そこでもってからに、」といいかけて、ちょっと姫様《ひいさま》を見上げたので声を密《ひそ》めた。
「だね、それ、狼って奴だ。お前《めえ》、滝の処はやっぱり真暗《まっくら》だっさ。野郎とうとう、めんないちどりで、ふん捕《づかめ》えて、口説こうと、ええ、そうさ、長い奴を一本|引提《ひっさ》げて入《へえ》ったって。大刀《だんびら》を突着けの、物凄くなった背後《うしろ》から、襟首を取ってぐいと手繰つけたものがあったっさ。天狗だと思って切ってかかったが、お前、暗試合《やみじあい》で盲目《めくら》なぐりだ。その内、痛えという声がする、かすった
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