ざいます処へ、またお馬に召した立派な若様がお立寄でございました。あのお倉さんというのが、それはもうこれ見よがしで、私《わたくし》は居ても立ってもいられません。あんまり悔しゅうございますから、どんなにお叱り遊ばしても宜《よ》うございます、お見懸け申しましてお願い申します。助けると思召して後生でございます、私《わたくし》どもへ。」
とおろおろ声で泣くようにいう。
「おや、じゃああのお茶屋の姉さんかい。」
「はい、さようでございます。」
「それでは御馳走をしてくれますか、」と背後《うしろ》の腕車《くるま》で微笑みながらいったのは、米が姫様《ひいさま》と申上げた、顔立も風采《ふうさい》もそれに叶《かな》った気高いのが、思懸けず気軽である。
女はかえって答もなし得ず、俯向《うつむ》いてただお辞儀をした。
「それじゃ若衆《わかいしゅ》さん。」
「おう、鍵屋だぜ。」
「あい、遣《や》んねえ。」
車夫は呼交わしてそのまま曳出《ひきだ》す。米は前へ駆抜けて、初音《はつね》はこの時にこそ聞えたれ。横着《よこづけ》にした、楫棒《かじぼう》を越えて、前なるがまず下りると、石滝|界隈《かいわい》へ珍しい白芙蓉《はくふよう》の花一輪。微風にそよそよとして下立った、片辺《かたえ》に引添《ひっそ》い、米は前へ立ってすらすらと入るのを、蔵屋の床几《しょうぎ》に居た両人、島野と義作がこれを差覗《さしのぞ》いて、慌《あわただ》しくひょいと立って、体と体が縒《よ》れるように並んで、急足《いそぎあし》につかつかと出た。
「お嬢様。」
「へい、お道どん、御苦労だね。」
「おや、義作さん、ここに。」
勇美子は店さきに入ろうとしたが、不意に会った内の者を顧みて、
「島野さんも来ていたの。」
「ええ、僕は大分久しい前からなんです。義作君はたった今、その馬が放れました一件で。」
「実は何でございます、飛んだ疎匆《そそう》をいたしやして、へい。ねえ、お道どん、こういう訳なんだ、実は、」
「はあ、そりゃもう、路で聞きましたよ、飛んだことだったね、でもまあ可《い》い塩梅《あんばい》に。」
「御家来さん、危《あぶの》うがしたな。」
「しかし怪我アしなさらなくって何よりだったよ。」と車夫どもは口々なり。お道もまた、
「そうねえ。」
「ええ、もう私《わっし》ゃ怪我なんぞ厭《いと》やしませんが、何、皆《みんな》千破矢の若様のお庇《かげ》なんで、へい。」
「ちょいとどうなすったの、滝太郎さんは。」と姫は四辺《あたり》を見て、御意遊ばす。
「お馬はあすこに居るじゃあないかね。」
「お嬢様、何ですか、その事でこちらへお越しなんですか。」
「何あのお雪のことなの。」
「姉さん、花売なんだがね、十八九でちょっとそういった風な女を見当りはしなかったかい。」
お道に聞かれて米が答えようとするのを、ちゃっと引取ったのは今両人が鍵屋の女客に引付けられて、店から出るのに気を揉《も》んで、あとからついて出て立っている蔵屋の女《むすめ》。
「その人なら、存じております、今朝ほどでございました。」
「私だって知ってます。」と、米はつんとして倉を流※[#「目+分」、第3水準1−88−77]《じろり》。
四十七
「貴方《あなた》の黒百合を採りたいって、とうとう石滝へ入ったそうです。」と、島野が引取って慎重にこれを伝える。
勇美子はその瞳を屹《きっ》と凝らしたが、道は聞くと斉《ひと》しく、顔の色を変えた。
「お嬢様、どういたしましょう。」
「困ったね、少しお待ち、あの、お前だち誰も中の様子を知らないかい。」
「はい、ちっとも。」
「あの、少しも存じません。」
「それはもう誰も知ったものはござりますまい。」
と車夫の一人。
「島野さん、義作さん、どうしたら可いでしょう。お嬢様が御褒美をお賭けなすったのを、旦那様がお聞遊ばすと、もっての外だ、間違いに怪我でもさせたらどうする、外《ほか》の内の者とは違うぞ、早く留めろと有仰《おっしゃ》るの。承わると実に御道理《ごもっとも》な事だから、早速あの娘にそういおうと思って、昨日《きのう》のことなんです、またこないだからふッとお邸には来ないもんですから、昨日《きのう》その金子《かね》は只《ただ》でお遣わしになることになって、それを持って私があそこへ、あの湯の谷の家《うち》へ行《ゆ》くと居ないんです。荒物屋から婆さんが私の姿を見ると、駆けて出て、取次いで、その花のことについて相談をされたのは私ばかり、はじめは滅相なと思ったが、情《こころ》を察すると無理はないので、泣《なき》の涙で合点しました。今日あたりはもう参ったかも知れませぬ、することが天道様の思召《おぼしめし》に叶《かな》ったら無事で帰って参りましょう。内に居る書生さんの旦那にはごく内々だから黙っておいて
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