、あれでさ、お前様《まえさん》、私ゃ飛んでもねえどじを行《や》ったで。へい、今朝旦那様をお役所へ送ってね、それからでさ、獣《えて》を引張《ひっぱ》って総曲輪まで帰って来ると、何に驚いたんだか、評判の榎があるって朝っぱらから化けもしめえに、畜生|棹立《さおだち》になって、ヒイン、え、ヒインてんで。」
「暴れたかね。」
「あばれたにも何も、一体名代の代物《しろもの》でごぜえしょう、そいつがお前《め》さん、盲目《めくら》滅法界に飛出したんで、はっと思う途端に真俯向《まうつむけ》に転《のめ》ったでさ。」
「おやおや、道理で額を擦剥《すりむ》いてら。」
 義作は掌《てのひら》でべたべたと顔を撫でて、
「串戯《じょうだん》じゃあがあせん、私《わっし》ゃ一期《いちご》で、ダーだと思ったね、地《つち》ん中へ顔を埋《うず》めてお前《め》さん、ずるずると引摺《ひきず》られたから、ぐらぐらと来て気が遠くなったんで。しばらくして突立《つった》って、わってッて追い駆けると、もうわいわいという騒ぎで、砂煙《すなけぶり》が立ってまさ。あれから旅籠町へ抜けて、東四十物町を突切《つっき》って、橋通りへ懸《かか》って神通を飛越そうてえ可恐《おそろし》い逸《そ》れ方だ。南無三宝《なむさんぽう》、こりゃ加州まで行くことかと息切がして蒼《あお》くなりましたね。鳥居前のお前さん、乱暴じゃあがあせんか、華族様だってえのにどうです、もっともまああの方にゃあ不思議じゃねえようなものの、空樽《あきだる》の腰掛だね、こちとらだって夏向は恐れまさ、あのそら一膳飯屋から、横っちょに駆出したのが若様なんです。え、滝先生、滝公、滝坊、へん滝豪傑、こっちの大明神なんで。」とぐっと乗り、拳を握って力を入れると、島野は横を向いて、
「ふむ。」
「どうです、威勢が可いじゃがあせんか。突然《いきなり》畜生の前へ突立《つった》ったから、ほい、蹴飛ばされるまでもねえ、前足が揃って天窓《あたま》の上を向うへ越すだろうと思うと、ひたりと留《とま》ったでさ。畜生、貧乏|動《ゆるぎ》をしやあがる腮《あご》の下へ、体を入れて透間がねえようにくッついて立つが早いか、ぽんと乗りの、しゃんしゃんさ。素人にゃあ出来やせん。義作、貸しねえ貸しねえてって例の我儘《わがまま》だから断りもされず、不断面倒臭くって困ったこともありましたっけが、先刻《さっき》は真《ほん》のこった、私《わっし》ゃ手を合わせました。どうしてお前《め》さんなんざ学者で先生だっていうけれど、からそんな時にゃあ腰を抜かすね。へい。何だって法律で馬にゃあ乗れませんや、どうでげす。」
「はい、お茶を一ツ。」
 大|気焔《きえん》の馬丁は見たばかりで手にも取らず、
「おう、そんなもなあ、まだるッこしい。今に私《わっし》ゃそこに湧《わ》いてるのに口をつけて干しちまうから打棄《うっちゃ》っておきねえ。はははは、ええ島野さん。おいらこれから石滝へ行《ゆ》くから、お前《めえ》あとから取りに来ねえ、夕立はちょいと借りるぜって、そのまま乗出したもんだからね、そこいら中騒いでた徒《てええ》に相済みませんを百万だら並べたんで。転んだ奴あ随分あったそうだけれど、大した怪我人もなし、持主が旦那様なんですから故障をいう奴もねえんで、そっちゃ安心をして追駈《おいか》けて来ましたが、何は若様はどちらへ行ったんで。」
「じゃあ、その何だろう、馬騒ぎで血逆上《ちのぼせ》がしたんだろう、本気じゃあないな。兵粮だって餡麺麭《あんパン》を捻込《ねじこ》んで、石滝の奥へ、今の前《さき》橋を渡ったんだ、ちょうど一足違い位なもんだ。」
「やッ、」というて目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る義作と一所に吃驚《びっくり》したのは、茶店の女で、向うの鍵屋の当の敵《かたき》、お米《よね》といって美しいのが、この折しも店先からはたはたと堤防《つつみ》へ駆出したことである。故こそあれ腕車が二台。

       四十六

「もしもしちょいとどうぞ、どうぞちょいとお待ち遊ばして。」と路を遮ったので、威勢の可《い》い腕車《くるま》が二台ともばったり[#「ばったり」は底本では「ばつたり」]停《とま》る。米は顔を赤らめて手を膝に下げて、
「恐入ります、御免下さいまし。どちらの姫様《ひいさま》ですか存じませんが、どうぞあちらへいらっしゃいましたら、私《わたくし》どもへお休み遊ばして下さいまし、後生でございます。」
 先に腕車《くるま》に乗ったのは、新しい紺飛白《こんがすり》に繻子《しゅす》の帯を締めて、銀杏返《いちょうがえし》に結った婦人《おんな》。
「何だね、お前さん。」
「はい、鍵屋と申します御休憩所《おやすみどころ》でございますが、よそと張合っておりますので。
 今朝から向《むこう》にばかりお客がご
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