。滝さん、お前さんの目つきと、その心なら、ここにある印は不残《のこらず》お前さんの手下になります、頼もしいじゃあないか。」
「うむ、」といって、重瞳《ちょうどう》異相の悪少は眠くないその左の目を擦《こす》った。
「加州は百万石の城下だからまた面白い事もあろう、素晴しい事が始まったら風の便《たより》にお聞きなさいよ。それじゃあ、あの随分ねえ。」
「気をつけて行きねえ。」
「あい、」
「………」
「おさらばだよ。」
その効々《かいがい》しい、きりりとして裾短《すそみじか》に、繻子《しゅす》の帯を引結んで、低下駄《ひくげた》を穿《は》いた、商売《あきない》ものの銀流を一包にして桐油合羽《とうゆがっぱ》を小さく畳んで掛けて、浅葱《あさぎ》の切《きれ》で胴中《どうなか》を結えた風呂敷包を手に提げて、片手に蝙蝠傘《こうもりがさ》を持った後姿。飄然《ひょうぜん》として橋を渡り去ったが、やがて中ほどでちょっと振返って、滝太郎を見返って、そのまま片褄《かたづま》を取って引上げた、白い太脛《ふくらはぎ》が見えると思うと、朝靄《あさもや》の中に見えなくなった。
やがて、夜が明け放れた時、お兼は新庄《しんじょ》の山の頂を越えた、その時は、裾を紮《から》げ、荷を担ぎ、蝙蝠傘をさして、木賃宿から出たらしい貧しげな旅の客。破毛布《やぶれげっと》を纏《まと》ったり、頬被《ほおかぶり》で顔を隠したり、中には汚れた洋服を着たのなどがあった、四五人と道連《みちづれ》になって、笑いさざめき興ずる体《てい》で、高岡を指して峠を下りたとのことである。
お兼が越えた新庄というのは、加州の方へ趣く道で、別にまた市中《まちなか》の北のはずれから、飛騨へ通ずる一筋の間道がある。すなわち石滝のある処で、旅客は岸|伝《づたい》に行《ゆ》くのであるが、ここを流るるのは神通の支流で、幅は十間に足りないけれども、わずかの雨にもたちまち暴溢《あふれ》て、しばしば堤防《どて》を崩す名代の荒河。橋の詰《つめ》には向い合って二軒、蔵屋、鍵《かぎ》屋と名ばかり厳《いかめ》しい、蛍狩、涼《すずみ》をあての出茶屋《でぢゃや》が二軒、十八になる同一年紀《おないどし》の評判娘が両方に居て、負けじと意気張って競争する、声も鶯《うぐいす》、時鳥《ほととぎす》。
「お休みなさいまし、お懸けなさいまし。」
四十二
その蔵屋という方の床几《しょうぎ》に、腰を懸けたのは島野紳士、ここに名物の吹上の水に対し、上衣《コオト》を取って涼を納《い》れながら、硝子盃《コップ》を手にして、
「ああ、涼しいが風が止《や》んだ、何だか曇って来たじゃあないか、雨はどうだろうな。」
客の人柄を見て招《まねき》の女、お倉という丸ぽちゃが、片襷《かただすき》で塗盆を手にして出ている。
「はい、大抵持ちましょうと存じます。それとも急にこうやって雲が出て参りましたから、ふとすると石滝でお荒れ遊ばすかも分りません。」
「何だね、石滝でお荒れというのは。」
「それはあの、少しでも滝から先へ足踏をする者がございますと、暴風雨《あらし》になるッて、昔から申しますのでございますが。」
島野は硝子盃を下に置いた。
「うむ、そして誰か入ったものがあるのかね。」
「今朝ほど、背負上《しょいあげ》を高くいたして、草鞋《わらじ》を穿《は》きましてね、花籃《はなかご》を担ぎました、容子《ようす》の佳《い》い、美しい姉さんが、あの小さなお扇子を手に持って、」と言懸《いいかか》ると、何と心得たものか、紳士は衣袋《かくし》の間から一本|平骨《ひらぼね》の扇子を抜出して、胸の辺りを、さやさや。
「はあ、それが入ったのか。」
「さようでございます。その姉さんは貴方《あなた》、こないだから、昼間参りましたり、晩方来ましたりいたしましては、この辺を胡乱々々《うろうろ》して、行ったり来たりしていたのでございますがね。今日は七日目でございます。まさかそんなことはと存じておりますと、今朝ほどここの前を通りましてね、滝の方へ行ったきり帰りません、きっと入りましたのでございましょう。」
「何かね、全くそんな不思議な処かね。」
「貴方、お疑り遊ばすと暴風雨《あらし》になりますよ。」といって、塗盆を片頬《かたほ》にあてて吻々《ほほ》と笑った、聞えた愛嬌者《あいきょうもの》である。島野は顔の皮を弛《ゆる》めて、眉をびりびり、目を細うしたのは謂《い》うまでもない。
「それは可《い》いが姉さん、心太《ところてん》を一ツ出しておくれな。」
「はい、はい。」
「待ちたまえ、いや、それともまた降られない内に帰るとするかね。」
「どういたしまして、降りませんでも、貴方|川留《かわどめ》でございますよ。」
方二坪ばかり杉葉の暗い中にむくむくと湧上《わきあが》る、清水に浸したのを
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