突《つき》にかけてずッと押すと、心太《ところてん》の糸は白魚のごときその手に搦《から》んだ。皿に装《も》って、はいと来る。島野は口も着けず下に置いて、
「そうして何かい、ついぞまだそこへ行った者を見たことはないのか。」
「いいえ、私が生れましてから始めてでございますが、貴方どうでございましょう、つい少しばかり前にいらっしゃいました、太った乱暴な、書生さんが、何ですか、その姉さんがここへ参りましたことを御存じの様子で、どうだとお聞きなさいますから、それそれ申しますと、うむといったッきり駈出《かけだ》して、その方もまだお帰《かえり》になりません。」
「え、そりゃ何か、目の丸い、」
「はい、お色の黒い、いがぐり天窓《あたま》の。もうもう貴方のようじゃあございませんよ、おほほほ。」
「いや!」とばかりでこの紳士、何か早や、にたりとしたが、急に真面目になって、
「ちょッ、しようがないな。」
「貴方御存じの方なんですか。」
「うむ、何だよ、その娘の跡を跟《つ》けまわしてな、から厭《いや》がられ切ってる癖に、狂犬《やまいぬ》のような奴だ、来たかい! 弱ったな、どうも、汝《うぬ》一人で。」
「何でございます。」
「いえさ、連《つれ》は無かったのか。」
四十三
「ただお一人でございましたよ、豪《えら》そうなお方なんです。それに仕込杖《しこみづえ》なんぞ持っていらっしゃいましたから、私達がかれこれ申上げた処で、とてもお肯入《ききい》れはなさりますまいと、そう思いまして黙って見ておりましたが、無事にお帰りなされば可《よ》うございますがね。」
島野は冷然として、
「何、犬に食われて死にゃあ可いんだ。」
「だって、姉さんはお可哀そうじゃございませんか。」
「そりゃお互様よ。」
「あれ、お安くございませんのね。でも、あの、二度あることは三度とやら申しますから、今日の内また誰かお入りなさりはしまいかと言って、内の父様《おとっさん》も案じておりますから、貴方またその姉さんをお助けなさろうの何のッて、あすこへいらっしゃるのはお止し遊ばしまし。」
「だが、その滝の傍《そば》までは行っても差支《さしつかえ》が無いそうじゃないか。」
「そこまでなら偶《たま》に行く人もございますが、貴方何しろ真暗《まっくら》だそうですよ。もうそこへ参りました者でも、帰ると熱を煩って、七日も十日も寝る人があるのでございます。」
「熱はお前さんを見て帰ったって同一《おんなじ》だ、何暗いたッて日中《ひなか》よ、構やしない。きっとそこらにうろついているに違いない、ちょっと僕は。おい、姉さん帰りに寄ろう。」
「お気をお着け遊ばしていらっしゃいましよ。」
島野は多磨太が先《さきん》じたりと聞くより、胸の内安からず、あたふた床几《しょうぎ》を離れて立ったが、いざとなると、さて容易な処ではない。ほぼ一町もあるという、森の彼方《かなた》にどうどうと響く滝の音は、大河を倒《さかしま》に懸けたように聞えて、その毛穴はここに居る身にもぞッと立った。島野は逡巡して立っている。
折から堤防伝《つつみづた》いに蹄《ひづめ》の音、一人|砂烟《すなけぶり》を立てて、斜《ななめ》に小さく、空《くう》を駆けるかと見る見る近づき、懸茶屋《かけぢゃや》の彼方から歩を緩《ゆる》めて、悠然と打って来た。茶屋の際の葉柳の下枝《しずえ》を潜《くぐ》って、ぬっくりと黒く顕《あら》われたのは、鬣《たてがみ》から尾に至るまで六尺、長《たけ》の高きこと三尺、全身墨のごとくにして夜眼《やがん》一点の白《はく》あり、名を夕立といって知事の君が秘蔵の愛馬。島野は一目見て驚いて呆れた。しっくりと西洋|鞍《ぐら》置いたるに胸を張って跨《またが》ったのは、美髯《びぜん》広額の君ではなく、一個白面の美少年。頭髪柔かにやや乱れた額少しく汗ばんで、玉洗えるがごとき頬のあたりを、さらさらと払った葉柳の枝を、一掴み馬上に掻遣《かいや》り、片手に手綱を控えながら、一蹄《いってい》三歩、懸茶屋の前に来ると、件《くだん》の異彩ある目に逸疾《いちはや》く島野を見着けた。
「島野、」と呼懸けざま、飜然《ひらり》と下立《おりた》ったのは滝太郎である。
常にジャムを領するをもって、自家の光彩を発揮する紳士は、この名馬夕立に対して恐入らざるを得ないので、
「おや、千破矢様、どうして貴方、」と渋面を造って頭《かしら》を下げる。その時、駿足《しゅんそく》に流汗を被りながら、呼吸はあえて荒からぬ夕立の鼻面を取って、滝太郎は、自分も掌《てのひら》で額の髪を上げた。
「おい、姉や。」
「はい、」
「水を一杯、冷《つめた》いのを大急《おおいそぎ》だ。島野、可い処でお前《めえ》に逢ったい。おいら、お前ン処《とこ》の義作の来るまで、あすこの柳にでも繋《つな》いでおこう
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