温泉《ゆ》の口なる、花室の露を掻潜《かいくぐ》って、山の裾へ出ると前後《あとさき》になり、藪《やぶ》について曲る時、透かすと、花屋が裏庭に、お雪がまだ色も見え分かぬ、朝まだき、草花の中に、折取るべき一個《ひとつ》の籠《かご》を抱いて、しょんぼりとして立っていた。髪|艶《つやや》かに姿白く、袖もなえて、露に濡れたような風情。推するに渠《かれ》は若山の医療のために百金を得まく、一輪の黒百合を欲して、思い悩んでいるのであろう。南天の下に手水鉢《ちょうずばち》が見えるあたりから、雨戸を三枚ばかり繰った、奥が真四角《まッしかく》に黒々と見えて、蚊帳の片端の裾が縁側へ溢《あふ》れて出ている。ト見る時、また高らかに蜩《ひぐらし》が鳴いた。
「そらね、あれだから。」
 と苦笑する。滝太郎と囁《ささや》き合い、かかることに馴《な》れて忍《しのび》の術を得たるごとき両個の人物は、ものおもうお雪が寝起《ねおき》の目にも留まらず、垣を潜《くぐ》って外へ出ると、まだ閉切ってある、荒物屋の小店の、燻《くすぶ》った、破目《やれめ》や節穴の多い板戸の前を抜けて、総井戸の釣瓶《つるべ》がしとしとと落つる短夜の雫《しずく》もまだ切果《きれは》てず、小家がちなる軒に蚊の声のあわただしい湯の谷を出て、総曲輪まで一条《ひとすじ》の径《こみち》にかかり、空を包んだ木の下に隠れて見えなくなった。
「それじゃあ滝さん、もう、ここから帰っておくれ、ちょうど人目にもかからないで済んだ。」
 早朝《あさまだき》町はずれへ来て、お兼は神通川に架した神通橋の袂《たもと》で立停《たちどま》ったのである。雲のごときは前途《ゆくて》の山、煙《けぶり》のようなは、市中《まちなか》の最高処にあって、ここにも見らるる城址《しろあと》の森である。名にし負う神通二百八間の橋を、真中《まんなか》頃から吹断《ふきた》って、隣国の方へ山道をかけて深々と包んだ朝靄《あさもや》は、高く揚って旭《あさひ》を遮り、低く垂れて水を隠した。色も一様の東雲《しののめ》に、流《ながれ》の音はただどうどうと、足許《あしもと》に沈んで響く。
 お兼は立去りあえず頭《かしら》を垂れたが、つと擬宝珠《ぎぼうし》のついた、一抱《ひとかかえ》に余る古びた橋の欄干に目をつけて、嫣然《えんぜん》として、振返って、
「ちょいと滝さん、見せるものがある。ね、この欄干を御覧、種々《いろいろ》な四角いものだの、丸いものだの、削った爪の跡だの、朱だの、墨だので印がつけてあるだろう、どうだい、これを記念《かたみ》に置いて行こうか。」

       四十一

 折から白髪天窓《しらがあたま》に菅《すげ》の小笠《おがさ》、腰の曲ったのが、蚊細《かぼそ》い渋茶けた足に草鞋《わらじ》を穿《は》き、豊島茣蓙《としまござ》をくるくると巻いて斜《ななめ》に背負《しょ》い、竹の杖を両手に二本突いて、頤《おとがい》を突出して気ばかり前《さき》へ立つ、婆《ばばあ》の旅客が通った。七十にもなって、跣足《はだし》で西京の本願寺へ詣《もう》でるのが、この辺りの信者に多いので、これは飛騨《ひだ》の山中《やまなか》あたりから出て来たのが、富山に一泊して、朝がけに、これから加州を指して行《ゆ》くのである。
 お兼は黙って遣過《やりす》ごして、再び欄干の爪の跡を教えた。
「これはね、皆《みんな》仲間の者が、道中の暗号《めじるし》だよ。中にゃあ今|真盛《まっさかり》な商売人のもあるが、ほらここにこの四角な印をつけてあるのが、私が行ってこれから逢おうという人だ、旧《もと》海軍に居た将官《たいしょう》だね。それからこうあっちに、畝々《うねうね》した線《すじ》が引張《ひっぱ》ってあるだろう、これはね、ここから飛騨の高山の方へ行ったんだよ。今は止《や》めていても兇状持《きょうじょうもち》で随分人相書の廻ってるのがあるから、迂濶《うかつ》な事が出来ないからさ。御覧よ、今本願寺|参《まいり》が一人通ったろう。たしかあれは十四五人ばかり一群《ひとむれ》なんだがね、その中でも二三人、体の暗い奴等が紛れ込んで富山から放れる筈《はず》だよ。倶利伽羅辺《くりからあたり》で一所になろう、どれ私もここへ、」
 と言懸けて、お兼は、銀煙管《ぎんぎせる》を抜くと、逆に取って、欄干の木の目を割って、吸口の輪を横に並べて、三つ圧《お》した。そのまま筒に入れて帯に差し、呆れて見惚《みと》れている滝太郎を見て、莞爾《にこり》として、
「どうだい、こりゃ吃驚《びっくり》だろう。方々の、祠《ほこら》の扉だの、地蔵堂の羽目だの、路傍《みちばた》の傍示杭《ぼうじぐい》だの、気をつけて御覧な、皆《みんな》この印がつけてあるから。人の知らない、楽書の中にこの位なことが籠《こも》ってるから、不思議だわね。だから世の中は面白いものだよ
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