です、」
「え、」と滝太郎は言淀《いいよど》んで、面《かお》の色が動いたが、やがて事も無げに、
「何、そりゃ、ちゃんと心得てら。でも、あの余計にゃあ無いもんだ。こいつあね、蠅じゃあ大きくって、駄目なの、小さな奴なら蜘蛛《くも》の子位は殺《やッ》つけるだろう。こら、恐《こわ》いなあ、まあ。」
心なく見たらば、群がった苔の中で気は着くまい。ほとんど土の色と紛《まが》う位、薄樺色《うすかばいろ》で、見ると、柔かそうに湿《しめり》を帯びた、小さな葉が累《かさな》り合って生えている。葉尖《はさき》にすくすくと針を持って、滑《なめら》かに開いていたのが、今蟻を取って上へ落すと、あたかも意識したように、静々と針を集めて、見る見る内に蟻を擒《とりこ》にしたのである。
滝太郎は、見て、その験《げん》あるを今更に驚いた様子で、
「ね、特別に活きてるだろう。」
五
「何でも崖《がけ》裏か、藪《やぶ》の陰といった日陰の、湿った処で見着けたのね?」
「そうだ、そうだ。」
滝太郎は邪慳《じゃけん》に、無愛想にいって目も放さず見ていたが、
「ヤ、半分ばかり食べやがった。ほら、こいつあ溶けるんだ。」
「まあ、ここに葉のまわりの針の尖《さき》に、一ツずつ、小さな水玉のような露を持っててね。」
「うむ、水が懸《かか》って、溜《たま》っているんだあな、雨上りの後だから。」
「いいえ、」といいながら勇美子は立って、室《へや》を横ぎり、床柱に黒塗の手提の採集筒と一所にある白金巾《しろかなきん》の前懸《まえかけ》を取って、襟へあてて、ふわふわと胸膝を包んだ。その瀟洒《しょうしゃ》な風采《ふうさい》は、あたかも古武士が鎧《よろい》を取って投懸けたごとく、白拍子が舞衣《まいぎぬ》を絡《まと》うたごとく、自家の特色を発揮して余《あまり》あるものであった。
勇美子は旧《もと》の座に直って、机の上から眼鏡《レンズ》を取って、件《くだん》の植物の上に翳《かざ》し、じっと見て、
「水じゃあないの、これはこの苔が持っている、そうね、まあ、あの蜘蛛が虫を捕える糸よ。蟻だの、蚋《ぶゆ》だの、留まると遁《の》がさない道具だわ。あなた名を知らないでしょう、これはね、モウセンゴケというんです、ちょいとこの上から御覧なさい。」と、眼鏡《レンズ》を差向けると、滝太郎は何をという仏頂面で、
「詰《つま》らねえ、そんなものより、おいらの目が確《たしか》だい。」といって傲然《ごうぜん》とした。
しかり、名も形も性質も知らないで、湿地の苔の中に隠れ生えて、虫を捕獲するのを発見した。滝太郎がものを見る力は、また多とすべきものである。あらかじめ[#「あらかじめ」は底本では「あからじめ」]書籍《ほん》に就いて、その名を心得、その形を知って、且ついかなる処で得らるるかを学んでいるものにも、容易に求猟《あさ》られない奇品であることを思い出した勇美子は、滝太郎がこの苔に就いて、いまだかつて何等の知識もないことに考え到《いた》って、越中の国富山の一箇所で、しかも薄暗い処でなければ産しない、それだけ目に着きやすからぬ不思議な草を、不用意にして採集して来たことに思い及ぶと同時に、名は知るまいといって誇ったのを、にわかに恥じて、差翳《さしかざ》した高慢な虫眼鏡を引込めながら、行儀悪くほとんど匍匐《はらばい》になって、頬杖《ほおづえ》を突いている滝太郎の顔を瞻《みまも》って、心から、
「あなたの目は恐《こわ》いのね。」と極めて真面目《まじめ》にしみじみといった。
勇美子は年紀《とし》も二ツばかり上である。去年父母に従うてこの地に来たが、富山より、むしろ東京に、東京よりむしろ外国に、多く年月を経た。父は前《さき》に仏蘭西《フランス》の公使館づきであったから、勇美子は母とともに巴里《パリイ》に住んで、九ツの時から八年有余、教育も先方《むこう》で受けた、その知識と経験とをもて、何等かこの貴公子に見所があったのであろう、滝太郎といえばかねてより。……
六
「よく見着けて採って来てねえ、それでは私に下さるんですか、頂いておいても宜《よろ》しいの。」
「だから難有《ありがと》うッて言いねえてば、はじめから分ってら。」と滝太郎は有為顔《したりがお》で嬉しそう。
「いいえ、本当に結構でございます。」
勇美子はこういって、猶予《ためら》って四辺《あたり》を見たが、手をその頬の辺《あたり》へ齎《もた》らして唇を指に触れて、嫣然《えんぜん》として微笑《ほほえ》むと斉《ひと》しく、指環《ゆびわ》を抜き取った。玉の透通って紅《あか》い、金色《こんじき》の燦《さん》たるのをつッと出して、
「千破矢さん、お礼をするわ。」
頤杖《あごづえ》した縁側の目の前《さき》に、しかき贈物を置いて、別に意《こころ》にも留
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