めない風で、滝太郎はモウセンゴケを載せた手巾《ハンケチ》の先を――ここに耳を引張《ひっぱ》るべき猟犬も居ないから――摘《つま》んでは引きながら、片足は沓脱《くつぬぎ》を踏まえたまま、左で足太鼓を打つ腕白さ。
「取っておいて下さいな。」
 まるで知らなかったのでもないかして、
「いりやしねえよ。さあ、とうとう蟻を食っちゃった、見ねえ、おい。」
 勇美子は引手繰《ひったぐ》られるように一膝出て、わずかに敷居に乗らないばかり。
「よう、おしまいなさいよ。」といったが、端《はした》なくも見えて、急《せ》き込む調子。
「欲《ほし》かアありませんぜ。」
「お厭《いや》。」
「それにゃ及ばないや。」
「それではお礼としないで、あの、こうしましょうか、御褒美。」と莞爾《にっこり》する。
「生意気を言っていら、」
 滝太郎は半ば身を起して腰をかけて言い棄てた。勇美子は返すべき言葉もなく、少年の顔を見るでもなく、モウセンゴケに並べてある贈物を見るでもなく、目の遣《や》り処に困った風情。年上の澄ました中《うち》にも、仇気《あどけ》なさが見えて愛々しい。顔を少し赤らめながら、
「ただ上げては失礼ね、千破矢さん、その指環。」
「え、」と思わず手を返した、滝太郎の指にも黄金《きん》の一条《ひとすじ》の環《わ》が嵌《はま》っている。
「取替ッこにしましょうか。」
「これをかい。」
「はあ、」
 勇美子は快活に思い切った物言いである。
 滝太郎は目を円《つぶら》にして、
「不可《いけね》え。こりゃ、」
「それでは、ただ下さいな。」
「うむ。」
「取替えるのがお厭なら。」
「止しねえ、お前《めえ》、お前さんの方がよッぽど可《い》いや、素晴しいんじゃないか。俺《おいら》のこの、」
 と斜《ななめ》に透かして、
「こりゃ、詰《つま》らない。取替えると損だから、悪いことは言わないぜ、はははは、」と笑ったが、努めて紛らそうとしたらしい。
 勇美子は燃ゆるがごとき唇を動かして、動かして、
「惜しいの、大事なんですか。」
「うむ、大事なんだ。」といい放って、縁を離れてそのまますッくと立った。
「帰《けえ》ったら何か持たして寄越《よこ》さあ、邸でも、庫《くら》でも欲しかあ上げよう、こいつあ、後生だから堪忍しねえ。」
 勇美子も慌《あわただ》しく立つ処へ、小間使は来て、廻縁の角へ優容《しとやか》に現れた。何にも知らないから、小腰を屈《かが》めて、
「お嬢様、例《いつぞ》の花売の娘が参っております。若様、もうお忘れ遊ばしたでしょう、冷水《おひや》は毒でございますよ。」

       七

 場末ではあるけれども、富山で賑《にぎや》かなのは総曲輪《そうがわ》という、大手先。城の外壕《そとぼり》が残った水溜《みずたまり》があって、片側町に小商賈《こあきゅうど》が軒を並べ、壕に沿っては昼夜交代に露店《ほしみせ》を出す。観世物《みせもの》小屋が、氷店《こおりみせ》に交《まじ》っていて、町外《まちはずれ》には芝居もある。
 ここに中空を凌《しの》いで榎《えのき》が一本、梢《こずえ》にははや三日月が白く斜《ななめ》に懸《かか》った。蝙蝠《こうもり》が黒く、見えては隠れる横町、総曲輪から裏の旅籠町《はたごまち》という大通《おおどおり》に通ずる小路を、ひとしきり急足《いそぎあし》の往来《ゆきき》があった後へ、もの淋《さみ》しそうな姿で歩行《ある》いて来たのは、大人しやかな学生風の、年配二十五六の男である。
 久留米の蚊飛白《かがすり》に兵児帯《へこおび》して、少し皺《しわ》になった紬《つむぎ》の黒の紋着《もんつき》を着て、紺足袋を穿《は》いた、鉄色の目立たぬ胸紐《むなひも》を律義に結んで、懐中物を入れているが、夕涼《ゆうすずみ》から出懸けたのであろう、帽は被《かぶ》らず、髪の短かいのが漆《うるし》のようで、色の美しく白い、細面の、背のすらりとしたのが、片手に帯を挟んで、俯向《うつむ》いた、紅絹《もみ》の切《きれ》で目を軽く押えながら、物思いをする風で、何か足許《あしもと》も覚束《おぼつか》ないよう。
 静かに歩を移して、もう少しで通《とおり》へ出ようとする、二|間《けん》幅の町の両側で、思いも懸けず、喚《わッ》! といって、動揺《どよ》めいた、四五人の小児《こども》が鯨波《とき》を揚げる。途端に足を取られた男は、横様にはたと地《つち》の上。
「あれ、」という声、旅籠町の角から、白い脚絆《きゃはん》、素足に草鞋穿《わらじばき》の裾《すそ》を端折《はしょ》った、中形の浴衣に繻子《しゅす》の帯の幅狭《はばぜま》なのを、引懸《ひっか》けに結んで、結んだ上へ、桃色の帯揚《おびあげ》をして、胸高に乳の下へしっかと〆《し》めた、これへ女扇をぐいと差して、膝の下の隠れるばかり、甲斐々々しく、水色|唐縮緬《と
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