は顔の色も沈んで、滝太郎にひしと摺寄《すりよ》りながら、
「そうかい、川の音は可《い》いけれど地獄が聞えるなんざ気障《きざ》だねえ。ちょいと、これから奥へ入ってどうするのさ、お前さんやりやしないか。私ゃ殺されそうな気がするよ、不気味だねえ。」
「馬鹿なことを!」
三十六
「いいえ、お前さん、何だか一通《ひととおり》じゃあないようだ、人殺《ひとごろし》もしかねない様子じゃあないか。」さすがの姉御《あねご》も洞中《ほらなか》の闇《やみ》に処して轟々《ごうごう》たる音の凄《すさま》じさに、奥へ導かれるのを逡巡《しりごみ》して言ったが、尋常《ただ》ならぬ光景に感ずる余り、半ばは滝太郎に戯れたので。
「おいで、さあ、夜が明けると人が見るぜ。出後《でおく》れた日にゃあ一日|逗留《とうりゅう》だ、」と言いながら、片手に燈《ともし》を釣って片手で袖を引くようにして連込んだ。お兼は身を任せて引かれ進むと、言うがごとく洞穴の突当りから左へ曲る真暗《まっくら》な処を通って、身を細うして行くとたちまち広し。
「まだまだ深いのかい。」
「もう可《い》い、ここはね、おい、誰も来る処じゃあねえよ。おいらだって、余程の工面で見着け出したんだ。」
滝太郎はこう言いながら、手なる燈《ともし》を上げて四辺《あたり》を照らした。
と見ると、処々《ところどころ》に筵《むしろ》を敷き、藁《わら》を束《つか》ね、あるいは紙を伸べ、布を拡げて仕切った上へ、四角、三角、菱形《ひしがた》のもの、丸いもの。紙入がある、莨入《たばこいれ》がある、時計がある。あるいは銀色の蒼《あお》く光るものあり、また銅《あかがね》の錆《さび》たるものあり、両手に抱えて余るほどな品は、一個《ひとつ》も見えないが、水晶の彫刻物、宝玉の飾《かざり》、錦《にしき》の切《きれ》、雛《ひいな》、香炉《こうろ》の類から、印のごときもの数えても尽されず、並べてあった。その列の最も端の方に据えたのが、蝦茶《えびちゃ》のリボン飾《かざり》、かつて勇美子が頭《かしら》に頂いたのが、色もあせないで燈《ひ》の影に黒ずんで見えた。傍《かたわら》には早附木《マッチ》の燃《もえ》さしが散《ちら》ばっていたのである。
地獄谷の響《ひびき》、神通の流《ながれ》の音は、ひとしきりひとしきり脈を打って鳴り轟《とどろ》いて、堆《うずたか》いばかりの贓品《ぞうひん》は一個々々《ひとつびとつ》心あって物を語らんとするがごとく、響に触れ、燈《ともし》に映って不残《のこらず》動くように見えて、一種言うべからざる陰惨の趣がある。お兼はじっと見て物をも言わぬ、その一言も発しないのを、感に耐えたからだとも思ったろう。滝太郎は極めて得意な様子でお兼の顔を見遣りながら、件《くだん》のリボン飾《かざり》を指《ゆびさ》して、
「これがね、一番新しいんだぜ。ほら、こないだ総曲輪で、姉やに掴《つか》まった時ね、あの昼間だ、あの阿魔、知事の娘のせいでもあるまいが、何だか取難《とりにく》かったよ、夜店をぶらついてる奴等の簪《かんざし》を抜くたあなぜか勝手が違うんだ。でもとうとう遣ッつけた、可い心持だった、それから、」
と言って飜《ひるがえ》って向うへ廻って、一個《ひとつ》の煙草入を照らして見せ、
「これが最初《はじめて》だ、富山へ来てから一番|前《さき》に遣ったのよ。それからね、見ねえ。」
甚しいかな、古色を帯びた観世音の仏像一体。
「これには弱ったんだ、清全寺ッて言う巨寺《おおでら》の秘仏だっさ。去年の夏頃開帳があって、これを何だ、本堂の真中《まんなか》へ持出して大変な騒ぎを遣るんだ。加賀からも、越後からもね、おい、泊懸《とまりがけ》の参詣《さんけい》で、旅籠町の宿屋はみんな泊《とまり》を断るというじゃあねえか。二十一日の間拝ませた。二十一日目だったかな、おいらも人出に浮かされて見に行ったっけ。寺の近所は八町ばかり往来の留まる程だったが、何が難有《ありがて》えか、まるで狂人《きちがい》だ。人の中を這出《はいだ》して、片息になってお前《めえ》、本尊の前へにじり出て、台に乗っけて小さな堂を据えてよ、錦《にしき》の帳《とばり》を棒の尖《さき》で上げたり下げたりして、その度にわッと唸《うな》らせちゃあ、うんと御賽銭《おさいせん》をせしめてやがる。そのお前、前へ伸上って、帳の中を覗《のぞ》こうとした媼《ばばあ》があったさ。汝《うぬ》血迷ったかといって、役僧め、媼を取って突飛ばすと、人の天窓《あたま》の上へ尻餅を搗《つ》いた。あれ引摺出《ひきずりだ》せと講中《こうじゅう》、肩衣《かたぎぬ》で三方にお捻《ひねり》を積んで、ずらりと並んでいやがったが、七八人|一時《いっとき》に立上がる。忌々《いまいま》しい、可哀そうに老人《としより》をと思って癪《しゃく
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