ばかり経《た》つと、その言違《ことたが》わず果して富山からだといって尋ねて来たのが、すなわち当時の家令で、先代に託されて、その卒去の後《のち》、血統というものが絶えて無いので、三年間千破矢家を預《あずか》っていて今も滝太郎を守立ててる竜川守膳《たつかわしゅぜん》という漢学者。
 守膳は学校の先生から滝太郎の母親の遺書を受取ったが、その時は早や滝太郎が俵町を去って二月ばかり過ぎた後であったので、泰山のごとく動かず、風采《ふうさい》、千破矢家の傳《ふ》たるに足る竜川守膳が、顔の色を変えて血眼になって、その捜索を、府下における区々の警察に頼み聞えると、両国|回向院《えこういん》のかの鼠小憎の墓前《はかのまえ》に、居眠《いねむり》をしていた小憎があった。巡行の巡査が怪《あやし》んで引立《ひった》て、最寄の警察で取調べたのが、俵町の裏長屋に居たそれだと謂って引渡された。
 田舎は厭《いや》だと駄々を捏《こ》ねるのを、守膳が老功で宥《なだ》め賺《すか》し、道中土を蹈《ふ》まさず、動《ゆるぎ》殿のお湯殿子《ゆどのこ》調姫《しらべひめ》という扱いで、中仙道は近道だが、船でも陸《おか》でも親不知《おやしらず》を越さねばならぬからと、大事を取って、大廻《おおまわり》に東海道、敦賀、福井、金沢、高岡、それから富山。

       三十五

 湯の谷の神の使だという白烏《しろからす》は、朝月夜にばかり稀《まれ》に見るものがあると伝えたり。
 ものの音はそれではないか。時ならず、花屋が庭|続《つづき》の藪《やぶ》の際に、かさこそ、かさこそと響《ひびき》を伝えて、ややありて一面に広々として草まばらな赤土の山の裾《すそ》へ、残月の影に照らし出されたのは、小さい白い塊である。
 その描けるがごとき人の姿は、薄《うッす》りと影を引いて、地の上へ黒い線が流るるごとく、一文字に広場を横切って、竹藪を離れたと思うと、やがて吹流しに手拭を被《かぶ》った婦人《おんな》の姿が顕《あらわ》れて立ったが、先へ行《ゆ》く者のあとを拾うて、足早に歩行《ある》いて、一所になると、影は草の間に隠れて、二人は山腹に面した件《くだん》の温泉《ゆ》の口の処で立停《たちどま》った。夏の夜はまだ明けやらず、森《しん》として、樹の枝に鳥が塒《ねぐら》を蹈替《ふみか》える音もしない。
「跟《つ》いておいで、この中だ。」と低声《こごえ》でいった滝太郎の声も、四辺《あたり》の寂莫《せきばく》に包まれて、異様に聞える。
 そのまま腰を屈《かが》めて、横穴の中へ消えるよう。
 お兼は抱着くがごとくにして、山腹の土に手をかけながら、体を横たえ、顔を斜《ななめ》にして差覗《さしのぞ》いて猶予《ためら》った。
「滝さん、暗いじゃあないか。」
 途端に紫の光一点、※[#「火+發」、308−13]《ぱっ》と響いて、早附木《マッチ》を摺《す》った。洞《ほら》の中は広く、滝太郎はかえって寛《くつろ》いで立っている。ほとんどその半身を蔽《おお》うまで、堆《うずだか》い草の葉|活々《いきいき》として冷たそうに露を溢《こぼ》さぬ浅翠《あさみどり》の中に、萌葱《もえぎ》、紅《あか》、薄黄色、幻のような早咲の秋草が、色も鮮麗《あざやか》に映って、今踏込むべき黒々とした土の色も見えたのである。
「花室《はなむろ》かい、綺麗だね。」
「入口は花室だ、まだずっと奥があるよ。これからつき当って曲るんだ、待っといで、暗いからな。」
 燃え尽して赤い棒になった早附木《マッチ》を棄てて、お兼を草花の中に残して、滝太郎は暗中に放れて去る。
 お兼は気を鎮めて洞《ほら》の口に立っていたが、たちまち慌《あわただ》しく呼んだ。
「ちょいと……ちょいと、ちょいと。」
 音も聞えず。お兼は尋常《ただ》ならず声を揚げて、
「滝さん、おい、ちょいと、滝さん。」
「おう、」と応《こた》えて、洞穴の隅の一方に少年の顔は顕れた。早く既に一個角燈に類した、あらかじめそこに用意をしてあるらしい灯《ともし》を手にしている。
 お兼は走り寄って、附着《くッつ》いて、
「恐しい音がする、何だい、大変な響だね。地面を抉《えぐ》り取るような音が聞えるじゃあないか。」
 いかにも洞の中は、ただこれ一条の大|瀑布《ばくふ》あって地の下に漲《みなぎ》るがごとき、凄《すさま》じい音が聞えるのである。
 滝太郎は事もなげに、
「ああ、こりゃね、神通川の音と、立山の地獄谷の音が一所になって聞えるんだって言うんだ。地底《じぞこ》がそこらまで続いているんだって、何でもないよ。」
 神通は富山市の北端を流るる北陸《ほくろく》七大川の随一なるものである。立山の地獄谷はまた世に響いたもので、ここにその恐るべき山川《さんせん》大叫喚の声を聞くのは、さすがに一個婦人の身に何でもない事ではない。
 お兼
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