うっかりしちゃあ危険《けんのん》だよ。」
「あい、いいえ、それが何だ、知事のお嬢さんがね、いやに目をつけて指環を取換《とッか》えようなんて言うんだ。何だか機関《からくり》を見られるようで、気がさすから、目立たないのが可かろう、銀流でもかけておけと、訳はありゃしねえ、出来心で遣ったんだ、相済みません。」といって、莞爾《かんじ》として戯《たわむれ》にその頭《つむり》を下げた。
「沢山《たんと》お辞儀をなさい、お前さん怪《け》しからないねえ。そりゃ惚《ほ》れてるんだろう、恐入った?」
「おお、惚れたんだか何だか知らねえが、姫様《ひいさま》の野郎が血道を上げて騒いでるなあ、黒百合というもんです。」
「何だとえ。」
「百合の花の黒いんだッさ、そいつを欲しいって騒ぐんだな。」
「へい、欲しければ買ったら可さそうなもんじゃあないか。」
「それがね、不可《いけ》ねえんだ、銭金《ぜにかね》ずくじゃないんだってよ。何でも石滝って処を奥へ蹈込《ふみこ》むと、ちょうど今時分咲いてる花で、きっとあるんだそうだけれど、そこがまた大変な処でね、天窓《あたま》が石のような猿の神様が住んでるの、恐《おそろし》い大《おおき》な鷲《わし》が居るの、それから何だって、山ン中だというに、おかしいじゃあねえか、水掻《みずかき》のある牛が居るの、種々《いろいろ》なことをいって、まだ昔から誰も入ったことがないそうで、どうして取って来られるもんだとも思やしないんだってこッた。弱虫ばかり、喧嘩の対手《あいて》にするほどのものも居ねえ処だから、そン中へ蹈込んで、骨のある妖物《ばけもの》にでも、たんかを切ってやろうと、おいら何《なん》するけれども、つい忙《せわし》いもんだから思ったばかし。」
「まあ、大層お前さん、むずかしいのね、忙いって何の事だい。」
「だから待ちねえ、見せるてこッた、うんと一番《ひとつ》喜ばせるものがあるんだぜ。」
「ああ、その滝さんが見せるというものは、何だか知らないが見たいものだよ。」
三十四
滝太郎はかつて勇美子に、微細なるモウセンゴケの不思議な作用を発見した視力を誉《たた》えられて、そのどこで採獲《とりえ》たかの土地を聞かれた時、言葉を濁して顔の色を変えたことを――前回に言った。
いでそのモウセンゴケを渠《かれ》が採集したのは、湯の谷なる山の裾の日当《ひあたり》に、雨の後ともなく常にじとじと、濡れた草が所々にある中においてした。しかもお雪が宿の庭|続《つづき》、竹藪《たけやぶ》で住居《すまい》を隔てた空地、直ちに山の裾が迫る処、その昔は温泉《ゆ》が湧出《わきで》たという、洞穴《ほらあな》のあたりであった。人は知らず、この温泉《ゆ》の口の奥は驚くべき秘密を有して、滝太郎が富山において、随処その病的の賊心を恣《ほしいまま》にした盗品を順序よく並べてある。されば、お雪が情人に貢ぐために行商する四季折々の花、美しく薫《かおり》のあるのを、露も溢《こぼ》さず、日ごとにこの洞穴の口浅く貯えておくのは、かえって、滝太郎が盗利品に向って投げた、花束であることを、あらかじめここに断っておかねばならぬ。
さて、滝太郎がその可恐《おそろ》しい罪を隠蔽《いんぺい》しておく、温泉《ゆ》の口の辺《あたり》で、精細|式《かた》のごときモウセンゴケを見着けた目は、やがてまた自分がそこに出没する時、人目のありやなしやを熟《じっ》と見定める眼《まなこ》であるから、己《おのれ》の視線の及ぶ限《かぎり》は、樹も草も、雲の形も、日の色も、従うて蟻の動くのも、露のこぼるるのも知らねばならないので、地平線上に異状を呈した、モウセンゴケの作用は、むしろ渠がいまだかつて見も聞きもしなかったほど一層心着くに容易《たやす》いのであった。あたかも可し、さる必用を要する渠が眼《まなこ》は、世に有数の異相と称せらるる重瞳《ちょうどう》である。ただし一双ともにそうではない、左一つ瞳《ひとみ》が重《かさな》っている。
そのせいであったろう。浅草で母親が病んで歿《みまか》る時、手を着いて枕許《まくらもと》に、衣帯を解かず看護した、滝太郎の頸《うなじ》を抱いて、(お前は何でもしたいことをおしよ、どんなことでもお前にはきっと出来るのだから、)といったッきり、もう咽喉《のど》がすうすうとなった。
その上また母親はあらかじめ一封の書を認《したた》めておいて、不断滝太郎から聞き取って、その自分の信用を失うてまで、人の忌嫌う我児を愛育した先生に滝太郎の手から託さするように遺言して、(私が亡くなった後で、もしも富山からだといって人が尋ねて来たら、この手紙を渡して下さい。開けちゃあ不可《いけ》ません、来なかったらばそのままで破って下さい、きっとお見懸け申してお頼み申します。)と言わせたのである。
やや一月
前へ
次へ
全50ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング