おむ》いて、
「なあ、これえ。」
と戸棚の前で、膳ごしらえする女房を頤《あご》で呼んで、
「知るまいな。忘れたろうよ、な、な、お前も、あの、江戸絵さ、蔵の中にあったっけか。」
「唯《はい》、ござりえす、出しますかえ。」と女房は判然《はっきり》言った。
「難有《ありがと》う、お琴《こと》さん。」
とはじめて親しげに名を言って、凝《じっ》と振向くと、浪《なみ》の浅葱《あさぎ》の暖簾越《のれんごし》に、また颯《さっ》と顔を赧《あか》らめた処《ところ》は、どうやら、あの錦絵の中の、その、どの一人かに俤《おもかげ》が幽《かすか》に似通《にかよ》う。……
「お一つ。」
とそこへ膳を直《なお》して銚子《ちょうし》を取った。変れば変るもので、まだ、七八《ななや》ツ九《ここの》ツばかり、母が存生《ぞんしょう》の頃の雛祭《ひなまつり》には、緋《ひ》の毛氈《もうせん》を掛けた桃桜《ももさくら》の壇の前に、小さな蒔絵《まきえ》の膳に並んで、この猪口《ちょこ》ほどな塗椀《ぬりわん》で、一緒に蜆《しじみ》の汁《つゆ》を替えた時は、この娘が、練物《ねりもの》のような顔のほかは、着くるんだ花の友染《ゆうぜん》で
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