へ行《ゆ》くまいぞ。」
 と小さな声して言聞《いいき》かせた。織次は小児心《こどもごころ》にも、その絵を売って金子《かね》に代えるのである、と思った。……顔馴染《かおなじみ》の濃い紅《くれない》、薄紫《うすむらさき》、雪の膚《はだえ》の姉様《あねさま》たちが、この暗夜《やみのよ》を、すっと門《かど》を出る、……と偶《ふ》と寂しくなった。が、紅《べに》、白粉《おしろい》が何んのその、で、新撰物理書の黒表紙が、四冊並んで、目の前で、ひょい、と躍《おど》った。
「待ってござい、織《おり》や。」
 ごろごろと静かな枢戸《くるるど》の音。
 台所を、どどんがたがた、鼠が荒野《あれの》と駈廻《かけまわ》る。
 と祖母《としより》が軒先から引返して、番傘《ばんがさ》を持って出直《でなお》す時、
「あのう、台所の燈《あかり》を消しといてくらっしゃいよ、の。」
 で、ガタリと門《かど》の戸がしまった。
 コトコトと下駄《げた》の音して、何処《どこ》まで行《ゆ》くぞ、時雨《しぐれ》の脚《あし》が颯《さっ》と通る。あわれ、祖母《としより》に導かれて、振袖《ふりそで》が、詰袖《つめそで》が、褄《つま》を取った
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