》ぢや、やい!)
右左《みぎひだり》にして綱《つな》を引張《ひつぱ》つたが、脚《あし》から根《ね》をつけた如《ごと》くにぬつくと立《た》つて居《ゐ》てびくともせぬ。
親仁《おやぢ》大《おほい》に苛立《いらだ》つて、叩《たゝ》いたり、打《ぶ》つたり、馬《うま》の胴体《どうたい》について二三|度《ど》ぐる/\と廻《ま》はつたが少《すこ》しも歩《ある》かぬ。肩《かた》でぶツつかるやうにして横腹《よこばら》に体《たい》をあてた時《とき》、漸《やうや》う前足《まへあし》を上《あ》げたばかり又《また》四|脚《あし》を突張《つツぱ》り抜《ぬ》く。
(嬢様《ぢやうさま》々々《/\》。)
と親仁《おやぢ》が喚《わめ》くと、婦人《をんな》は一寸《ちよいと》立《た》つて白《しろ》い爪《つま》さきをちよろちよろと真黒《まツくろ》に煤《すゝ》けた太《ふと》い柱《はしら》を楯《たて》に取《と》つて、馬《うま》の目《め》の届《とゞ》かぬほどに小隠《こがく》れた。
其内《そのうち》腰《こし》に挟《はさ》んだ、煮染《にし》めたやうな、なへ/\の手拭《てぬぐひ》を抜《ぬ》いて克明《こくめい》に刻《きざ》んだ額《ひたひ》の皺《しは》の汗《あせ》を拭《ふ》いて、親仁《おやぢ》は之《これ》で可《よ》しといふ気組《きぐみ》、再《ふたゝ》び前《まへ》へ廻《まは》つたが、旧《きう》に依《よ》つて貧乏動《びんぼうゆるぎ》もしないので、綱《つな》に両手《りやうて》をかけて足《あし》を揃《そろ》へて反返《そりかへ》るやうにして、うむと総身《さうみ》の力《ちから》を入《い》れた。途端《とたん》に何《ど》うぢやい。
凄《すさま》じく嘶《いなゝ》いて前足《まへあし》を両方《りやうはう》中空《なかぞら》へ飜《ひるがへ》したから、小《ちひさ》な親仁《おやぢ》は仰向《あふむ》けに引《ひツ》くりかへつた、づどんどう、月夜《つきよ》に砂煙《すなけぶり》が※[#「火+發」、42−10]《ぱツ》と立《た》つ。
白痴《ばか》にも之《これ》は可笑《をかし》かつたらう、此時《このとき》ばかりぢや、真直《まツすぐ》に首《くび》を据《す》ゑて厚《あつ》い唇《くちびる》をばくりと開《あ》けた、大粒《おほつぶ》な歯《は》を露出《むきだ》して、那《あ》の宙《ちゆう》へ下《さ》げて居《ゐ》る手《て》を風《かぜ》で煽《あふ》るやうに、はらり/\。
(世話《せわ》が焼《や》けることねえ、)
婦人《をんな》は投《な》げるやうにいつて草履《ざうり》を突《つツ》かけて土間《どま》へついと出《で》る。
(嬢様《ぢやうさま》勘違《かんちが》ひさつしやるな、これはお前様《まへさま》ではないぞ、何《なん》でもはじめから其処《そこ》な御坊様《おばうさま》に目《め》をつけたつけよ、畜生《ちくしやう》俗縁《ぞくえん》があるだツぺいわさ。)
俗縁《ぞくえん》は驚《おどろ》いたい。
すると婦人《をんな》が、
(貴僧《あなた》こゝへ入《い》らつしやる路《みち》で誰《だれ》にかお逢《あ》ひなさりはしませんか。)」
第十九
「(はい、辻《つぢ》の手前《てまへ》で富山《とやま》の反魂丹売《はんごんたんうり》に逢《あ》ひましたが、一|足《あし》前《さき》に矢張《やツぱり》此《この》路《みち》へ入《はい》りました。)
(あゝ、然《さ》う、)と会心《くわいしん》の笑《ゑみ》を洩《も》らして婦人《をんな》は蘆毛《あしげ》の方《はう》を見《み》た、凡《およ》そ耐《たま》らなく可笑《をか》しいといつた仂《はした》ない風采《とりなり》で。
極《きは》めて与《くみ》し易《やす》う見《み》えたので、
(もしや此家《こちら》へ参《まゐ》りませなんだでございませうか。)
(否《いゝえ》、存《ぞん》じません。)といふ時《とき》忽《たちま》ち犯《をか》すべからざる者《もの》になつたから、私《わし》は口《くち》をつぐむと、婦人《をんな》は、匙《さぢ》を投《な》げて衣《きぬ》の塵《ちり》を払《はら》ふて居《ゐ》る馬《うま》の前足《まへあし》の下《した》に小《ちい》さな親仁《おやぢ》を見向《みむ》いて、
(為様《しやう》がないねえ、)といひながら、かなぐるやうにして、其《そ》の細帯《ほそおび》を解《と》きかけた、片端《かたはし》が土《つち》へ引《ひ》かうとするのを、掻取《かいと》つて一寸《ちよいと》猶予《ためら》ふ。
(あゝ、あゝ、)と濁《にご》つた声《こゑ》を出《だ》して白痴《あはう》が件《くだん》のひよろりとした手《て》を差向《さしむ》けたので、婦人《をんな》は解《と》いたのを渡《わた》して遣《や》ると、風呂敷《ふろしき》を寛《ひろ》げたやうな、他愛《たあい》のない、力《ちから》のない、膝《ひざ》の上《うへ》へわがねて宝物《はうもつ》を守護《しゆご》するやうぢや。
婦人《をんな》は衣紋《えもん》を抱合《かきあ》はせ、乳《ちゝ》の下《した》でおさへながら静《しづ》かに土間《どま》を出《で》て馬《うま》の傍《わき》へつゝと寄《よ》つた。
私《わし》は唯《たゞ》呆気《あつけ》に取《と》られて見《み》て居《ゐ》ると、爪立《つまだて》をして伸上《のびあが》り、手《て》をしなやかに空《そら》ざまにして、二三|度《ど》鬣《たてがみ》を撫《な》でたが。
大《おほき》な鼻頭《はなづら》の正面《しやうめん》にすつくりと立《た》つた。丈《せい》もすら/\と急《きふ》に高《たか》くなつたやうに見《み》えた、婦人《をんな》は目《め》を据《す》ゑ、口《くち》を結《むす》び、眉《まゆ》を開《ひら》いて恍惚《うつとり》となつた有様《ありさま》、愛嬌《あいけう》も嬌態《しな》も、世話《せわ》らしい打解《うちと》けた風《ふう》は頓《とみ》に失《う》せて、神《しん》か、魔《ま》かと思《おも》はれる。
其時《そのとき》裏《うら》の山《やま》、向《むか》ふの峯《みね》、左右《さいう》前後《ぜんご》にすく/\とあるのが、一ツ一ツ嘴《くちばし》を向《む》け、頭《かしら》を擡《もた》げて、此《こ》の一|落《らく》の別天地《べツてんち》、親仁《おやぢ》を下手《したで》に控《ひか》へ、馬《うま》に面《めん》して彳《たゝず》んだ月下《げツか》の美女《びぢよ》の姿《すがた》を差覗《さしのぞ》くが如《ごと》く、陰々《いん/\》として深山《しんざん》の気《き》が籠《こも》つて来《き》た。
生《なま》ぬるい風《かぜ》のやうな気勢《けはひ》がすると思《おも》ふと、左《ひだり》の肩《かた》から片膚《かたはだ》を脱《ぬ》いたが、右《みぎ》の手《て》を脱《はづ》して、前《まへ》へ廻《まは》し、ふくらんだ胸《むね》のあたりで着《き》て居《ゐ》た其《そ》の単衣《ひとへ》を丸《まろ》げて持《も》ち、霞《かすみ》も絡《まと》はぬ姿《すがた》になつた。
馬《うま》は背《せな》、腹《はら》の皮《かは》を弛《ゆる》めて汗《あせ》もしとゞに流《なが》れんばかり、突張《つツぱ》つた脚《あし》もなよ/\として身震《みぶるひ》をしたが、鼻面《はなづら》を地《ち》につけて、一|掴《つかみ》の白泡《しろあは》を吹出《ふきだ》したと思《おも》ふと前足《まへあし》を折《を》らうとする。
其時《そのとき》、頤《あぎと》の下《した》へ手《て》をかけて、片手《かたて》で持《も》つて居《ゐ》た単衣《ひとへ》をふわりと投《な》げて馬《うま》の目《め》を蔽《おほ》ふが否《いな》や、
兎《うさぎ》は躍《をど》つて、仰向《あふむ》けざまに身《み》を飜《ひるがへ》し、妖気《えうき》を籠《こ》めて朦朧《まうろう》とした月《つき》あかりに、前足《まへあし》の間《あひだ》に膚《はだ》が挟《はさま》つたと思《おも》ふと、衣《きぬ》を脱《はづ》して掻取《かいと》りながら下腹《したばら》を衝《つ》と潜《くゞ》つて横《よこ》に抜《ぬ》けて出《で》た。
親仁《おやぢ》は差心得《さしこゝろえ》たものと見《み》える、此《こ》の機《きツ》かけに手綱《たづな》を引《ひ》いたから、馬《うま》はすた/\と健脚《けんきやく》を山路《やまぢ》に上《あ》げた、しやん、しやんしやん、しやんしやん、しやんしやん、――見《み》る間《ま》に眼界《がんかい》を遠《とほ》ざかる。
婦人《をんな》は早《は》や衣服《きもの》を引《ひツ》かけて椽側《えんがは》へ入《はい》つて来《き》て、突然《いきなり》帯《おび》を取《と》らうとすると、白痴《ばか》は惜《を》しさうに押《おさ》へて放《はな》さず、手《て》を上《あ》げて。婦人《をんな》の胸《むね》を圧《おさ》へやうとした。
邪慳《じやけん》に払《はら》ひ退《の》けて、屹《きツ》と睨《にら》むで見《み》せると、其《その》まゝがつくりと頭《かうべ》を垂《た》れた、総《すべ》ての光景《くわうけい》は行燈《あんどう》の火《ひ》も幽《かす》かに幻《まぼろし》のやうに見《み》えたが、炉《ろ》にくべた柴《しば》がひら/\と炎先《ほさき》を立《た》てたので、婦人《をんな》は衝《つ》と走《はし》つて入《はい》る。空《そら》の月《つき》のうらを行《ゆ》くと思《おも》ふあたり遥《はるか》に馬子唄《まごうた》が聞《きこ》えたて。)」[#「)」」はママ]
第二十
「さて、其《それ》から御飯《ごはん》の時《とき》ぢや、膳《ぜん》には山家《やまが》の香《かう》の物《もの》、生姜《はじかみ》の漬《つ》けたのと、わかめを茹《う》でたの、塩漬《しほづけ》の名《な》も知《し》らぬ蕈《きのこ》の味噌汁《みそじる》、いやなか/\人参《にんじん》と干瓢《かんぺう》どころではござらぬ。
品物《しなもの》は佗《わび》しいが、なか/\の御手料理《おてれうり》、餓《う》えては居《ゐ》るし冥加《みやうが》至極《しごく》なお給仕《きふじ》、盆《ぼん》を膝《ひざ》に構《かま》へて其上《そのうへ》を肱《ひぢ》をついて、頬《ほゝ》を支《さゝ》えながら、嬉《うれ》しさうに見《み》て居《ゐ》たわ。
椽側《えんがは》に居《ゐ》た白痴《あはう》は誰《たれ》も取合《とりあ》はぬ徒然《つれ/″\》に堪《た》へられなくなつたものか、ぐた/\と膝行出《いざりだ》して、婦人《をんな》の傍《そば》へ其《そ》の便々《べん/\》たる腹《はら》を持《も》つて来《き》たが、崩《くづ》れたやうに胡座《あぐら》して、頻《しきり》に恁《か》う我《わし》が膳《ぜん》を視《なが》めて、指《ゆびさし》をした。
(うゝ/\、うゝ/\。)
(何《なん》でございますね、あとでお食《あが》んなさい、お客様《きやくさま》ぢやあゝりませんか。)
白痴《あはう》は情《なさけ》ない顔《かほ》をして口《くち》を曲《ゆが》めながら頭《かぶり》を掉《ふ》つた。
(厭《いや》? 仕様《しやう》がありませんね、それぢや御一所《ごいつしよ》に召《め》しあがれ。貴僧《あなた》御免《ごめん》を蒙《かうむ》りますよ。)
私《わし》は思《おも》はず箸《はし》を置《お》いて、
(さあ何《ど》うぞお構《かま》ひなく、飛《とん》だ御雑作《ござふさ》を、頂《いたゞ》きます。)
(否《いえ》、何《なん》の貴僧《あなた》。お前《まい》さん後程《のちほど》に私《わたし》と一所《いつしよ》にお食《た》べなされば可《いゝ》のに。困《こま》つた人《ひと》でございますよ。)とそらさぬ愛想《あいさう》、手早《てばや》く同一《おなじ》やうな膳《ぜん》を拵《こしら》えてならべて出《だ》した。
飯《めし》のつけやうも効々《かひ/″\》しい女房《にようばう》ぶり、然《しか》も何《なん》となく奥床《おくゆか》しい、上品《じやうひん》な、高家《かうけ》の風《ふう》がある。
白痴《あはう》はどんよりした目《め》をあげて膳《ぜん》の上《うへ》を睨《ね》めて居《ゐ》たが、
(彼《あれ》を、あゝ、彼《あれ》、彼《あれ》。)といつてきよろ/\と四辺《あたり》を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまは》す。
婦人《をんな》は熟《ぢつ》と瞻《みまも》つて、
(
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