《おと》を何処《どこ》かで聞《き》きます。貴僧《あなた》は此方《こちら》へ被入《いら》つしやる道《みち》でお心着《こゝろづ》きはなさいませんかい。)
然《さ》ればこそ山蛭《やまびる》の大藪《おほやぶ》へ入《はい》らうといふ少《すこ》し前《まへ》から其《そ》の音《おと》を。
(彼《あれ》は林《はやし》へ風《かぜ》の当《あた》るのではございませんので?)
(否《いえ》、誰《たれ》でも然《さ》う申《まを》します那《あ》の森《もり》から三|里《り》ばかり傍道《わきみち》へ入《はい》りました処《ところ》に大瀧《おほたき》があるのでございます、其《そ》れは/\日本一《にツぽんいち》ださうですが路《みち》が嶮《けは》しうござんすので、十|人《にん》に一人《ひとり》参《まゐ》つたものはございません。其《そ》の瀧《たき》が荒《あ》れましたと申《まを》しまして丁度《ちやうど》今《いま》から十三|年《ねん》前《まへ》、可恐《おそろ》しい洪水《おほみづ》がございました、恁麼《こんな》高《たか》いところまで川《かは》の底《そこ》になりましてね、麓《ふもと》の村《むら》も山《やま》の家《いへ》も残《のこ》らず流《なが》れて了《しま》ひました。此《こ》の上《かみ》の洞《ほら》もはじめは二十|軒《けん》ばかりあつたのでござんす、此《こ》の流《なが》れも其時《そのとき》から出来《でき》ました、御覧《ごらん》なさいましな、此《こ》の通《とほ》り皆《みな》石《いし》が流《なが》れたのでございますよ。)
婦人《をんな》は何時《いつ》かもう米《こめ》を精《しら》げ果《は》てゝ、衣紋《えもん》の乱《みだ》れた、乳《ち》の端《はし》もほの見《み》ゆる、膨《ふく》らかな胸《むね》を反《そ》らして立《た》つた、鼻《はな》高《たか》く口《くち》を結《むす》んで目《め》を恍惚《うつとり》と上《うへ》を向《む》いて頂《いたゞき》を仰《あふ》いだが、月《つき》はなほ半腹《はんぷく》の其《そ》の累々《るゐ/\》たる巌《いはほ》を照《て》らすばかり。
(今《いま》でも恁《か》うやつて見《み》ますと恐《こは》いやうでございます。)と屈《かゞ》んで二の腕《うで》の処《ところ》を洗《あら》つて居《ゐ》ると。
(あれ、貴僧《あなた》、那様《そんな》行儀《ぎやうぎ》の可《い》いことをして被在《ゐら》しつてはお召《めし》が濡《ぬ》れます、気味《きみ》が悪《わる》うございますよ、すつぱり裸体《はだか》になつてお洗《あら》ひなさいまし、私《わたし》が流《なが》して上《あ》げませう。)
(否《いえ》、)
(否《いえ》ぢやあござんせぬ、それ、それ、お法衣《ころも》の袖《そで》に浸《ひた》るではありませんか、)といふと突然《いきなり》背後《うしろ》から帯《おび》に手《て》をかけて、身悶《みもだえ》をして縮《ちゞ》むのを、邪慳《じやけん》らしくすつぱり脱《ぬ》いで取《と》つた。
私《わし》は師匠《ししやう》が厳《きびし》かつたし、経《きやう》を読《よ》む身体《からだ》ぢや、肌《はだ》さへ脱《ぬ》いだことはついぞ覚《おぼ》えぬ。然《しか》も婦人《をんな》の前《まへ》、蝸牛《まひ/\つぶろ》が城《しろ》を明《あ》け渡《わた》したやうで、口《くち》を利《き》くさへ、況《ま》して手足《てあし》のあがきも出来《でき》ず背中《せなか》を丸《まる》くして、膝《ひざ》を合《あ》はせて、縮《ちゞ》かまると、婦人《をんな》は脱《ぬ》がした法衣《ころも》を傍《かたはら》の枝《えだ》へふわりとかけた。
(お召《めし》は恁《か》うやつて置《お》きませう、さあお背《せな》を、あれさ、じつとして。お嬢様《ぢやうさま》と有仰《おつしや》つて下《くだ》さいましたお礼《れい》に、叔母《をば》さんが世話《せわ》を焼《や》くのでござんす、お人《ひと》の悪《わる》い、)といつて片袖《かたそで》を前歯《まへば》で引上《ひきあ》げ、
玉《たま》のやうな二の腕《うで》をあからさまに背中《せなか》に乗《の》せたが、熟《じつ》と見《み》て、
(まあ、)
(何《ど》うかいたしてをりますか。)
(痣《あざ》のやうになつて一|面《めん》に。)
(えゝ、それでございます、酷《ひど》い目《め》に逢《あ》ひました。)
思《おも》ひ出《だ》しても悚然《ぞツ》とするて。」
第十五
「婦人《をんな》は驚《おどろ》いた顔《かほ》をして、
(それでは森《もり》の中《なか》で、大変《たいへん》でございますこと。旅《たび》をする人《ひと》が、飛騨《ひだ》の山《やま》では蛭《ひる》が降《ふ》るといふのは彼処《あすこ》でござんす。貴僧《あなた》は抜道《ぬけみち》を御存《ごぞん》じないから正面《まとも》に蛭《ひる》の巣《す》をお通《とほ》りなさいましたのでございますよ。お生命《いのち》も冥加《みやうが》な位《くらゐ》、馬《うま》でも牛《うし》でも吸殺《すひころ》すのでございますもの。然《しか》し疼《うづ》くやうにお痒《かゆ》いのでござんせうね。)
(唯今《たゞいま》では最《も》う痛《いた》みますばかりになりました。)
(それでは恁麼《こんな》ものでこすりましては柔《やはらか》いお肌《はだ》が擦剥《すりむ》けませう、)といふと手《て》が綿《わた》のやうに障《さは》つた。
それから両方《りようはう》の肩《かた》から、背《せな》、横腹《よこばら》、臀《いしき》、さら/\水《みづ》をかけてはさすつてくれる。
それがさ、骨《ほね》に通《とほ》つて冷《つめた》いかといふと然《さ》うではなかつた。暑《あつ》い時分《じぶん》ぢやが、理屈《りくつ》をいふと恁《か》うではあるまい、私《わし》の血《ち》が湧《わ》いたせいか、婦人《をんな》の温気《ぬくみ》か、手《て》で洗《あら》つてくれる水《みづ》が可《いゝ》工合《ぐあひ》に身《み》に染《し》みる、尤《もツと》も質《たち》の佳《い》い水《みづ》は柔《やはらか》ぢやさうな。
其《そ》の心地《こゝち》の得《え》もいはれなさで、眠気《ねむけ》がさしたでもあるまいが、うと/\する様子《やうす》で、疵《きず》の痛《いた》みがなくなつて気《き》が遠《とほ》くなつてひたと附《くツ》ついて居《ゐ》る婦人《をんな》の身体《からだ》で、私《わし》は花《はな》びらの中《なか》へ包《つゝ》まれたやうな工合《ぐあひ》。
山家《やまが》の者《もの》には肖合《にあ》はぬ、都《みやこ》にも希《まれ》な器量《きりやう》はいふに及《およ》ばぬが弱々《よわ/\》しさうな風采《ふう》ぢや、背《せなか》を流《なが》す内《うち》にもはツ/\と内証《ないしよう》で呼吸《いき》がはづむから、最《も》う断《ことは》らう/\と思《おも》ひながら、例《れい》の恍惚《うつとり》で、気《き》はつきながら洗《あら》はした。
其上《そのうへ》、山《やま》の気《き》か、女《をんな》の香《にほひ》か、ほんのりと佳《い》い薫《かほり》がする、私《わし》は背後《うしろ》でつく息《いき》ぢやらうと思《おも》つた。」
上人《しやうにん》は一寸《ちよいと》句切《くぎ》つて、
「いや、お前様《まんさま》お手近《てちか》ぢや、其《そ》の明《あかり》を掻立《かきた》つて貰《もら》ひたい、暗《くら》いと怪《け》しからぬ話《はなし》ぢや、此処等《ここら》から一|番《ばん》野面《のづら》で遣《やツ》つけやう。」
枕《まくら》を並《なら》べた上人《しやうにん》の姿《すがた》も朧《おぼろ》げに明《あかり》は暗《くら》くなつて居《ゐ》た、早速《さつそく》燈心《とうしん》を明《あかる》くすると、上人《しやうにん》は微笑《ほゝゑ》みながら続《つゞ》けたのである。
「さあ、然《さ》うやつて何時《いつ》の間《ま》にやら現《うつゝ》とも無《な》しに、恁《か》う、其《そ》の不思議《ふしぎ》な、結構《けつこう》な薫《かほり》のする暖《あツたか》い花《はな》の中《なか》へ、柔《やはら》かに包《つゝ》まれて、足《あし》、腰《こし》、手《て》、肩《かた》、頸《えり》から次第《しだい》に、天窓《あたま》まで一|面《めん》に被《かぶ》つたから吃驚《びツくり》、石《いし》に尻持《しりもち》を搗《つ》いて、足《あし》を水《みづ》の中《なか》に投出《なげだ》したから落《お》ちたと思《おも》ふ途端《とたん》に、女《をんな》の手《て》が脊後《うしろ》から肩越《かたこし》に胸《むね》をおさへたので確《しつか》りつかまつた。
(貴僧《あなた》、お傍《そば》に居《ゐ》て汗臭《あせくさ》うはござんせぬかい飛《とん》だ暑《あつ》がりなんでございますから、恁《か》うやつて居《を》りましても恁麼《こんな》でございますよ。)といふ胸《むね》にある手《て》を取《と》つたのを、慌《あは》てゝ放《はな》して棒《ぼう》のやうに立《た》つた。
(失礼《しつれい》、)
(いゝえ誰《たれ》も見《み》て居《を》りはしませんよ。)と澄《す》まして言《い》ふ、婦人《をんな》も何時《いつ》の間《ま》にか衣服《きもの》を脱《ぬ》いで全身《ぜんしん》を練絹《ねりぎぬ》のやうに露《あら》はして居《ゐ》たのぢや。
何《なん》と驚《おどろ》くまいことか。
(恁麼《こんな》に太《ふと》つて居《を》りますから、最《も》うお可愧《はづか》しいほど暑《あつ》いのでございます、今時《いまどき》は毎日《まいにち》二|度《ど》も三|度《ど》も来《き》ては恁《か》うやつて汗《あせ》を流《なが》します、此《こ》の水《みづ》がございませんかつたら何《ど》ういたしませう、貴僧《あなた》、お手拭《てぬぐひ》。)といつて絞《しぼ》つたのを寄越《よこ》した。
(其《それ》でおみ足《あし》をお拭《ふ》きなさいまし。)
何時《いつ》の間《ま》にか、体《からだ》はちやんと拭《ふ》いてあつた、お話《はな》し申《まを》すも恐多《おそれおほ》いか、はゝはゝはゝ。」
第十六
「なるほど見《み》た処《ところ》、衣服《きもの》を着《き》た時《とき》の姿《すがた》とは違《ちが》ふて肉《しゝ》つきの豊《ゆたか》な、ふつくりとした膚《はだへ》。
(先刻《さツき》小屋《こや》へ入《はい》つて世話《せわ》をしましたので、ぬら/\した馬《うま》の鼻息《はないき》が体中《からだぢゆう》へかゝつて気味《きみ》が悪《わる》うござんす。丁度《ちやうど》可《よ》うございますから私《わたし》も体《からだ》を拭《ふ》きませう、)
と姉弟《あねおとうと》が内端話《うちはばなし》をするやうな調子《てうし》。手《て》をあげて黒髪《くろかみ》をおさへながら腋《わき》の下《した》を手拭《てぬぐひ》でぐいと拭《ふ》き、あとを両手《りやうて》で絞《しぼ》りながら立《た》つた姿《すがた》、唯《たゞ》これ雪《ゆき》のやうなのを恁《かゝ》る霊水《れいすい》で清《きよ》めた、恁云《かうい》ふ女《をんな》の汗《あせ》は薄紅《うすくれなゐ》になつて流《なが》れやう。
一寸《ちよい》/\と櫛《くし》を入《い》れて、
(まあ、女《をんな》がこんなお転婆《てんば》をいたしまして、川《かは》へ落《おつ》こちたら何《ど》うしませう、川下《かはしも》へ流《なが》れて出《で》ましたら、村里《むらさと》の者《もの》が何《なん》といつて見《み》ませうね。)
(白桃《しろもゝ》の花《はな》だと思《おも》ひます。)と弗《ふ》と心着《こゝろつ》いて何《なん》の気《き》もなしにいふと、顔《かほ》が合《あ》ふた。
すると然《さ》も嬉《うれ》しさうに莞爾《にツこり》して其時《そのとき》だけは初々《うゐ/\》しう年紀《とし》も七ツ八ツ若《わか》やぐばかり、処女《きむすめ》の羞《はぢ》を含《ふく》んで下《した》を向《む》いた。
私《わし》は其《その》まゝ目《め》を外《そ》らしたが、其《そ》の一|段《だん》の婦人《をんな》の姿《すがた》が月《つき》を浴《あ》びて、薄《うす》い煙《けぶり》に包《つゝ》まれながら向《むか》ふ岸《ぎし》の※[#「さんずい+散」、36−13]《しぶき
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