檜《ひのき》ぢやが、其処《そこ》らに何《なんに》もない路《みち》を横截《よこぎ》つて見果《みはて》のつかぬ田圃《たんぼ》の中空《なかそら》へ虹《にじ》のやうに突出《つきで》て居《ゐ》る、見事《みごと》な。根方《ねかた》の処《ところ》の土《つち》が壊《くづ》れて大鰻《おほうなぎ》を捏《こ》ねたやうな根《ね》が幾筋《いくすぢ》ともなく露《あら》はれた、其《その》根《ね》から一|筋《すぢ》の水《みづ》が颯《さつ》と落《お》ちて、地《ぢ》の上《うへ》へ流《なが》れるのが、取《と》つて進《すゝ》まうとする道《みち》の真中《まんなか》に流出《ながれだ》してあたりは一|面《めん》。
田圃《たんぼ》が湖《みづうみ》にならぬが不思議《ふしぎ》で、どう/\と瀬《せ》になつて、前途《ゆくて》に一|叢《むら》の藪《やぶ》が見《み》える、其《それ》を境《さかひ》にして凡《およ》そ二|町《ちやう》ばかりの間《あひだ》宛《まる》で川《かは》ぢや。礫《こいし》はばら/\、飛石《とびいし》のやうにひよい/\と大跨《おほまた》で伝《つた》へさうにずつと見《み》ごたへのあるのが、それでも人《ひと》の手《て》で並《なら》べたに違《ちが》ひはない。
尤《もつと》も衣服《きもの》を脱《ぬ》いで渡《わた》るほどの大事《おほごと》なのではないが、本街道《ほんかいだう》には些《ち》と難儀《なんぎ》過《す》ぎて、なか/\馬《うま》などが歩行《ある》かれる訳《わけ》のものではないので。
売薬《ばいやく》もこれで迷《まよ》つたのであらうと思《おも》ふ内《うち》、切放《きれはな》れよく向《むき》を変《か》へて右《みぎ》の坂《さか》をすた/\と上《のぼ》りはじめた。
見《み》る間《ま》に檜《ひのき》を後《うしろ》に潜《くゞ》り抜《ぬ》けると、私《わし》が体《からだ》の上《うへ》あたりへ出《で》て下《した》を向《む》き、
(おい/\、松本《まつもと》へ出《で》る路《みち》は此方《こつち》だよ、)といつて無雑作《むざふさ》にまた五六|歩《ぽ》。
岩《いは》の頭《あたま》へ半身《はんしん》を乗出《のりだ》して、
(茫然《ぼんやり》してると、木精《こだま》が攫《さら》ふぜ、昼間《ひるま》だつて用捨《ようしや》はねえよ。)と嘲《あざけ》るが如《ごと》く言《い》ひ棄《す》てたが、軈《やが》て岩《いは》の陰《かげ》に入《はい》つて高《たか》い処《ところ》の草《くさ》に隠《かく》れた。
暫《しばら》くすると見上《みあ》げるほどな辺《あたり》へ蝙蝠傘《かうもりがさ》の先《さき》が出《で》たが、木《き》の枝《えだ》とすれ/\になつて茂《しげみ》の中《なか》に見《み》えなくなつた。
(どッこいしよ、)と暢気《のんき》なかけ声《ごゑ》で、其《そ》の流《ながれ》の石《いし》の上《うへ》を飛々《とび/″\》に伝《つたは》つて来《き》たのは、呉座《ござ》の尻当《しりあて》をした、何《なん》にもつけない天秤棒《てんびんぼう》を片手《かたて》で担《かつ》いだ百姓《ひやくしやう》ぢや。」
第五
「前刻《さツき》の茶店《ちやみせ》から此処《こゝ》へ来《く》るまで、売薬《ばいやく》の外《ほか》は誰《たれ》にも逢《あ》はなんだことは申上《まをしあ》げるまでもない。
今《いま》別《わか》れ際《ぎは》に声《こゑ》を懸《か》けられたので、先方《むかう》は道中《だうちう》の商売人《しやうばいにん》と見《み》たゞけに、まさかと思《おも》つても気迷《きまよひ》がするので、今朝《けさ》も立《た》ちぎはによく見《み》て来《き》た、前《まへ》にも申《まを》す、其《そ》の図面《づめん》をな、此処《こゝ》でも開《あ》けて見《み》やうとして居《ゐ》た処《ところ》。
(一寸《ちよいと》伺《うかゞ》ひたう存《ぞん》じますが、)
(これは、何《なん》でござりまする、)と山国《やまぐに》の人《ひと》などは殊《こと》に出家《しゆつけ》と見《み》ると丁寧《ていねい》にいつてくれる。
(いえ、お伺《うかゞ》ひ申《まを》しますまでもございませんが、道《みち》は矢張《やツぱり》これを素直《まツすぐ》に参《まゐ》るのでございませうな。)
(松本《まつもと》へ行《ゆ》かつしやる? あゝ/\本道《ほんだう》ぢや、何《なに》ね、此間《こなひだ》の梅雨《つゆ》に水《みづ》が出《で》てとてつもない川《かは》さ出来《でき》たでがすよ。)
(未《ま》だずつと何処《どこ》までも此《この》水《みづ》でございませうか。)
(何《なん》のお前様《まへさま》、見《み》たばかりぢや、訳《わけ》はござりませぬ、水《みづ》になつたのは向《むか》ふの那《あ》の藪《やぶ》までゞ、後《あと》は矢張《やツぱり》これと同一《おんなじ》道筋《みちすぢ》で山《やま》までは荷車《にぐるま》が並《なら》んで通《とほ》るでがす。藪《やぶ》のあるのは旧《もと》大《おほき》いお邸《やしき》の医者様《いしやさま》の跡《あと》でな、此処等《こゝいら》はこれでも一ツの村《むら》でがした、十三|年《ねん》前《ぜん》の大水《おほみづ》の時《とき》、から一|面《めん》に野良《のら》になりましたよ、人死《ひとじに》もいけえこと。御坊様《ごばうさま》歩行《ある》きながらお念仏《ねんぶつ》でも唱《とな》へて遣《や》つてくれさつしやい)と問《と》はぬことまで親切《しんせつ》に話《はな》します。其《それ》で能《よ》く仔細《しさい》が解《わか》つて確《たしか》になりはなつたけれども、現《げん》に一人《ひとり》蹈迷《ふみまよ》つた者《もの》がある。
(此方《こつち》の道《みち》はこりや何処《どこ》へ行《ゆ》くので、)といつて売薬《ばいやく》の入《はい》つた左手《ゆんで》の坂《さか》を尋《たづ》ねて見《み》た。
(はい、これは五十|年《ねん》ばかり前《まへ》までは人《ひと》が歩行《ある》いた旧道《きうだう》でがす。矢張《やツぱり》信州《しんしう》へ出《で》まする、前《さき》は一つで七|里《り》ばかり総体《そうたい》近《ちか》うござりますが、いや今時《いまどき》往来《わうらい》の出来《でき》るのぢやあござりませぬ。去年《きよねん》も御坊様《おばうさま》、親子連《おやこづれ》の順礼《じゆんれい》が間違《まちが》へて入《はい》つたといふで、はれ大変《たいへん》な、乞食《こじき》を見《み》たやうな者《もの》ぢやといふて、人命《じんめい》に代《かは》りはねえ、追《おツ》かけて助《たす》けべいと、巡査様《おまはりさま》が三|人《にん》、村《むら》の者《もの》が十二人《じふにゝん》、一|組《くみ》になつて之《これ》から押登《おしのぼ》つて、やつと連《つ》れて戻《もど》つた位《くらゐ》でがす。御坊様《おばうさま》も血気《けつき》に逸《はや》つて近道《ちかみち》をしてはなりましねえぞ、草臥《くたび》れて野宿《のじゆく》をしてからが此処《こゝ》を行《ゆ》かつしやるよりは増《まし》でござるに。はい、気《き》を着《つ》けて行《ゆ》かつしやれ。)
此処《こゝ》で百姓《ひやくしやう》に別《わか》れて其《そ》の川《かは》の石《いし》の上《うへ》を行《ゆか》うとしたが弗《ふ》と猶予《ためら》つたのは売薬《ばいやく》の身《み》の上《うへ》で。
まさかに聞《き》いたほどでもあるまいが、其《それ》が本当《ほんたう》ならば見殺《みごろし》ぢや、何《ど》の道《みち》私《わたし》は出家《しゆつけ》の体《からだ》、日《ひ》が暮《く》れるまでに宿《やど》へ着《つ》いて屋根《やね》の下《した》に寝《ね》るには及《およ》ばぬ、追着《おツつ》いて引戻《ひきもど》して遣《や》らう。罷違《まかりちが》ふて旧道《きうだう》を皆《みな》歩行《ある》いても怪《け》しうはあるまい、恁《か》ういふ時候《じこう》ぢや、狼《おほかみ》の春《しゆん》でもなく、魑魅魍魎《ちみまうりやう》の汐《しほ》さきでもない、まゝよ、と思《おも》ふて、見送《みおく》ると早《は》や親切《しんせつ》な百姓《ひやくしやう》の姿《すがた》も見《み》えぬ。
(可《よ》し。)
思切《おもひき》つて坂道《さかみち》に取《と》つて懸《かゝ》つた、侠気《をとこぎ》があつたのではござらぬ、血気《けつき》に逸《はや》つたでは固《もと》よりない、今《いま》申《まを》したやうではずつと最《も》う悟《さと》つたやうぢやが、いやなか/\の憶病者《おくびやうもの》、川《かは》の水《みづ》を飲《の》むのさへ気《き》が怯《ひ》けたほど生命《いのち》が大事《だいじ》で、何故《なぜ》又《また》と謂《い》はつしやるか。
唯《たゞ》挨拶《あいさつ》をしたばかりの男《をとこ》なら、私《わし》は実《じつ》の処《ところ》、打棄《うつちや》つて置《お》いたに違《ちが》ひはないが、快《こゝろよ》からぬ人《ひと》と思《おも》つたから、其《その》まゝに見棄《みす》てるのが、故《わざ》とするやうで、気《き》が責《せ》めてならなんだから、」
と宗朝《しうてう》は矢張《やツぱり》俯向《うつむ》けに床《とこ》に入《はい》つたまゝ合掌《がツしやう》していつた。
「其《それ》では口《くち》でいふ念仏《ねんぶつ》にも済《す》まぬと思《おも》ふてさ。」
第六
「さて、聞《き》かつしやい、私《わし》はそれから檜《ひのき》の裏《うら》を抜《ぬ》けた、岩《いは》の下《した》から岩《いは》の上《うへ》へ出《で》た、樹《き》の中《なか》を潜《くゞ》つて草深《くさふか》い径《こみち》を何処《どこ》までも、何処《どこ》までも。
すると何時《いつ》の間《ま》にか今《いま》上《あが》つた山《やま》は過《す》ぎて又《また》一ツ山《やま》が近《ちか》づいて来《き》た、此辺《このあたり》暫《しばら》くの間《あひだ》は野《の》が広々《ひろ/″\》として、前刻《さツき》通《とほ》つた本街道《ほんかいだう》より最《も》つと巾《はゞ》の広《ひろ》い、なだらかな一|筋道《すぢみち》。
心持《こゝろもち》西《にし》と、東《ひがし》と、真中《まんなか》に山《やま》を一ツ置《お》いて二|条《すぢ》並《なら》んだ路《みち》のやうな、いかさまこれならば鎗《やり》を立《た》てゝも行列《ぎやうれつ》が通《とほ》つたであらう。
此《こ》の広《ひろ》ツ場《ぱ》でも目《め》の及《およ》ぶ限《かぎり》芥子粒《けしつぶ》ほどの大《おほき》さの売薬《ばいやく》の姿《すがた》も見《み》ないで、時々《とき/″\》焼《や》けるやうな空《そら》を小《ちひ》さな虫《むし》が飛歩行《とびある》いた。
歩行《ある》くには此《こ》の方《はう》が心細《こゝろぼそ》い、あたりがばツとして居《ゐ》ると便《たより》がないよ。勿論《もちろん》飛騨越《ひだごゑ》と銘《めい》を打《う》つた日《ひ》には、七|里《り》に一|軒《けん》十|里《り》に五|軒《けん》といふ相場《さうば》、其処《そこ》で粟《あは》の飯《めし》にありつけば都合《つがふ》も上《じやう》の方《はう》といふことになつて居《を》ります。其《そ》の覚悟《かくご》のことで、足《あし》は相応《さうおう》に達者《たツしや》、いや屈《くつ》せずに進《すゝ》んだ進《すゝ》んだ。すると、段々《だん/″\》又《また》山《やま》が両方《りやうはう》から逼《せま》つて来《き》て、肩《かた》に支《つか》へさうな狭《せま》いことになつた、直《す》ぐに上《のぼり》。
さあ、之《これ》からが名代《なだい》の天生峠《あまふたうげ》と心得《こゝろえ》たから、此方《こツち》も其気《そのき》になつて、何《なに》しろ暑《あつ》いので、喘《あへ》ぎながら、先《ま》づ草鞋《わらぢ》の紐《ひも》を締直《しめなほ》した。
丁度《ちやうど》此《こ》の上口《のぼりくち》の辺《あたり》に美濃《みの》の蓮大寺《れんたいじ》の本堂《ほんだう》の床下《ゆかした》まで吹抜《ふきぬ》けの風穴《かざあな》があるといふことを年経《とした》つてから聞《き》きましたが、なか/\其処《そこ》どころの沙汰《さた》で
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