、天井《てんじやう》は低《ひく》いが、梁《うつばり》は丸太《まるた》で二抱《ふたかゝへ》もあらう、屋《や》の棟《むね》から斜《なゝめ》に渡《わた》つて座敷《ざしき》の果《はて》の廂《ひさし》の処《ところ》では天窓《あたま》に支《つか》へさうになつて居《ゐ》る、巌丈《がんぢやう》な屋造《やづくり》、是《これ》なら裏《うら》の山《やま》から雪頽《なだれ》が来《き》てもびくともせぬ。
特《こと》に炬燵《こたつ》が出来《でき》て居《ゐ》たから私《わたし》は其《その》まゝ嬉《うれ》しく入《はい》つた。寐床《ねどこ》は最《も》う一|組《くみ》同一《おなじ》炬燵《こたつ》に敷《し》いてあつたが、旅僧《たびそう》は之《これ》には来《きた》らず、横《よこ》に枕《まくら》を並《なら》べて、火《ひ》の気《け》のない臥床《ねどこ》に寐《ね》た。
寐《ね》る時《とき》、上人《しやうにん》は帯《おび》を解《と》かぬ、勿論《もちろん》衣服《きもの》も脱《ぬ》がぬ、着《き》たまゝ丸《まる》くなつて俯向形《うつむきなり》に腰《こし》からすつぽりと入《はい》つて、肩《かた》に夜具《やぐ》の袖《そで》を掛《か》けると手《て》を突《つ》いて畏《かしこま》つた、其《そ》の様子《やうす》は我々《われ/\》と反対《はんたい》で、顔《かほ》に枕《まくら》をするのである。程《ほど》なく寂然《ひつそり》として寝《ね》に着《つ》きさうだから、汽車《きしや》の中《なか》でもくれ/″\いつたのは此処《こゝ》のこと、私《わたし》は夜《よ》が更《ふ》けるまで寐《ね》ることが出来《でき》ない、あはれと思《おも》つて最《も》う暫《しばら》くつきあつて、而《そ》して諸国《しよこく》を行脚《あんぎや》なすつた内《うち》のおもしろい談《はなし》をといつて打解《うちと》けて幼《おさな》らしくねだつた。
すると上人《しやうにん》は頷《うなづ》いて、私《わし》は中年《ちうねん》から仰向《あふむ》けに枕《まくら》に着《つ》かぬのが癖《くせ》で、寐《ね》るにも此儘《このまゝ》ではあるけれども目《め》は未《ま》だなか/\冴《さ》えて居《を》る、急《きふ》に寐着《ねつ》かれないのはお前様《まへさま》と同一《おんなし》であらう。出家《しゆつけ》のいふことでも、教《おしへ》だの、戒《いましめ》だの、説法《せつぱふ》とばかりは限《かぎ》らぬ、若《わか》いの、聞《き》かつしやい、と言《いつ》て語《かた》り出《だ》した。後《あと》で聞《き》くと宗門《しうもん》名誉《めいよ》の説教師《せつけうし》で、六明寺《りくみんじ》の宗朝《しうてう》といふ大和尚《だいおしやう》であつたさうな。
第三
「今《いま》に最《も》う一人《ひとり》此処《こゝ》へ来《き》て寝《ね》るさうぢやが、お前様《まへさま》と同国《どうこく》ぢやの、若狭《わかさ》の者《もの》で塗物《ぬりもの》の旅商人《たびあきうど》。いや此《こ》の男《をとこ》なぞは若《わか》いが感心《かんしん》に実体《じつてい》な好《い》い男《をとこ》。
私《わし》が今《いま》話《はなし》の序開《じよびらき》をした其《そ》の飛騨《ひだ》の山越《やまごえ》を遣《や》つた時《とき》の、麓《ふもと》の茶屋《ちやゝ》で一|所《しよ》になつた富山《とやま》の売薬《ばいやく》といふ奴《やつ》あ、けたいの悪《わる》い、ねぢ/\した厭《いや》な壮佼《わかいもの》で。
先《ま》づこれから峠《たうげ》に掛《かゝ》らうといふ日《ひ》の、朝早《あさはや》く、尤《もつと》も先《せん》の泊《とまり》はものゝ三|時《じ》位《ぐらゐ》には発《た》つて来《き》たので、涼《すゞし》い内《うち》に六|里《り》ばかり、其《そ》の茶屋《ちやゝ》までのしたのぢやが、朝晴《あさばれ》でぢり/\暑《あつ》いわ。
慾張抜《よくばりぬ》いて大急《おほいそ》ぎで歩《ある》いたから咽《のど》が渇《かは》いて為様《しやう》があるまい早速《さつそく》茶《ちや》を飲《のま》うと思《おも》ふたが、まだ湯《ゆ》が沸《わ》いて居《を》らぬといふ。
何《ど》うして其《その》時分《じぶん》ぢやからといふて、滅多《めツた》に人通《ひとどほり》のない山道《やまみち》、朝顔《あさがほ》の咲《さ》いてる内《うち》に煙《けぶり》が立《た》つ道理《だうり》もなし。
床几《しやうぎ》の前《まへ》には冷《つめ》たさうな小流《こながれ》があつたから手桶《てをけ》の水《みづ》を汲《く》まうとして一寸《ちよいと》気《き》がついた。
其《それ》といふのが、時節柄《じせつがら》暑《あつ》さのため、可恐《おそろし》い悪《わる》い病《やまひ》が流行《はや》つて、先《さき》に通《とほ》つた辻《つじ》などといふ村《むら》は、から一|面《めん》に石灰《いしばひ》だらけぢやあるまいか。
(もし、姉《ねえ》さん。)といつて茶店《ちやみせ》の女《をんな》に、
(此《この》水《みづ》はこりや井戸《ゐど》のでござりますか。)と、極《きま》りも悪《わる》し、もじ/\聞《き》くとの。
(いんね川《かは》のでございす。)といふ、はて面妖《めんえう》なと思《おも》つた。
(山《やま》したの方《はう》には大分《だいぶ》流行病《はやりやまひ》がございますが、此《この》水《みづ》は何《なに》から、辻《つぢ》の方《はう》から流《なが》れて来《く》るのではありませんか。)
(然《さ》うでねえ。)と女《をんな》は何気《なにげ》なく答《こた》へた、先《ま》づ嬉《うれ》しやと思《おも》ふと、お聞《き》きなさいよ。
此処《こゝ》に居《ゐ》て先刻《さツき》から休《や》すんでござつたのが、右《みぎ》の売薬《ばいやく》ぢや。此《こ》の又《また》万金丹《まんきんたん》の下廻《したまはり》と来《き》た日《ひ》には、御存《ごぞん》じの通《とほ》り、千筋《せんすぢ》の単衣《ひとへ》に小倉《こくら》の帯《おび》、当節《たうせつ》は時計《とけい》を挟《はさ》んで居《ゐ》ます、脚絆《きやはん》、股引《もゝひき》、之《これ》は勿論《もちろん》、草鞋《わらぢ》がけ、千草木綿《ちくさもめん》の風呂敷包《ふろしきづゝみ》の角《かど》ばつたのを首《くび》に結《ゆは》へて、桐油合羽《とういうがつぱ》を小《ちい》さく畳《たゝ》んで此奴《こいつ》を真田紐《さなだひも》で右《みぎ》の包《つゝみ》につけるか、小弁慶《こべんけい》の木綿《もめん》の蝙蝠傘《かうもりがさ》を一|本《ぽん》、お極《きまり》だね。一寸《ちよいと》見《み》ると、いやどれもこれも克明《こくめい》で、分別《ふんべつ》のありさうな顔《かほ》をして。これが泊《とまり》に着《つ》くと、大形《おほがた》の裕衣《ゆかた》に変《かは》つて、帯広解《おびひろげ》で焼酎《せうちう》をちびり/\遣《や》りながら、旅籠屋《はたごや》の女《をんな》のふとつた膝《ひざ》へ脛《すね》を上《あ》げやうといふ輩《やから》ぢや。
(これや、法界坊《はふかいばう》、)
なんて、天窓《あたま》から嘗《な》めて居《ゐ》ら。
(異《おつ》なことをいふやうだが何《なに》かね世《よ》の中《なか》の女《をんな》が出来《でき》ねえと相場《さうば》が極《きま》つて、すつぺら坊主《ばうず》になつても矢張《やツぱ》り生命《いのち》は欲《ほ》しいのかね、不思議《ふしぎ》ぢやあねえか、争《あらそ》はれねもんだ、姉《ねえ》さん見《み》ねえ、彼《あれ》で未《ま》だ未練《みれん》のある内《うち》が可《い》いぢやあねえか、)といつて顔《かほ》を見合《みあ》はせて二人《ふたり》で呵々《から/\》と笑《わら》つたい。
年紀《とし》は若《わか》し、お前様《まへさん》、私《わし》は真赤《まツか》になつた、手《て》に汲《く》んだ川《かは》の水《みづ》を飲《の》みかねて猶予《ためら》つて居《ゐ》るとね。
ポンと煙管《きせる》を払《はた》いて、
(何《なに》、遠慮《ゑんりよ》をしねえで浴《あ》びるほどやんなせえ、生命《いのち》が危《あやふ》くなりや、薬《くすり》を遣《や》らあ、其為《そのため》に私《わし》がついてるんだぜ、喃《なあ》姉《ねえ》さん。おい、其《それ》だつても無銭《たゞ》ぢやあ不可《いけね》えよ憚《はゞか》りながら神方万金丹《しんぱうまんきんたん》、一|貼《てふ》三|百《びやく》だ、欲《ほ》しくば買《か》ひな、未《ま》だ坊主《ばうず》に報捨《はうしや》をするやうな罪《つみ》は造《つく》らねえ、其《それ》とも何《ど》うだお前《まへ》いふことを肯《き》くか、)といつて茶店《ちやみせ》の女《をんな》の背中《せなか》を叩《たゝ》いた。
私《わし》は匆々《さう/\》に遁出《にげだ》した。
いや、膝《ひざ》だの、女《をんな》の背中《せなか》だのといつて、いけ年《とし》を仕《つかまつ》つた和尚《おしやう》が業体《げふてい》で恐入《おそれい》るが、話《はなし》が、話《はなし》ぢやから其処《そこ》は宜《よろ》しく。」
第四
「私《わし》も腹立紛《はらだちまぎ》れぢや、無暗《むやみ》と急《いそ》いで、それからどん/\山《やま》の裾《すそ》を田圃道《たんぼみち》へ懸《かゝ》る。
半町《はんちやう》ばかり行《ゆ》くと、路《みち》が恁《か》う急《きふ》に高《たか》くなつて、上《のぼ》りが一《いつ》ヶ|処《しよ》、横《よこ》から能《よ》く見《み》えた、弓形《ゆみなり》で宛《まる》で土《つち》で勅使橋《ちよくしばし》がかゝつてるやうな。上《うへ》を見《み》ながら、之《これ》へ足《あし》を踏懸《ふみか》けた時《とき》、以前《いぜん》の薬売《くすりうり》がすた/\遣《や》つて来《き》て追着《おひつ》いたが。
別《べつ》に言葉《ことば》も交《か》はさず、又《また》ものをいつたからといふて、返事《へんじ》をする気《き》は此方《こツち》にもない。何処《どこ》までも人《ひと》を凌《しの》いだ仕打《しうち》な薬売《くすりうり》は流盻《しりめ》にかけて故《わざ》とらしう私《わし》を通越《とほりこ》して、すた/\前《まへ》へ出《で》て、ぬつと小山《こやま》のやうな路《みち》の突先《とつさき》へ蝙蝠傘《かうもりがさ》を差《さ》して立《た》つたが、其《その》まゝ向《むか》ふへ下《お》りて見《み》えなくなる。
其後《そのあと》から爪先上《つまさきあが》り、軈《やが》てまた太鼓《たいこ》の胴《どう》のやうな路《みち》の上《うへ》へ体《からだ》が乗《の》つた、其《それ》なりに又《また》下《くだ》りぢや。
売薬《ばいやく》は先《さき》へ下《お》りたが立停《たちどま》つて頻《しきり》に四辺《あたり》を瞻《みまは》して居《ゐ》る様子《やうす》、執念深《しふねんぶか》く何《なに》か巧《たく》んだか、と快《こゝろよ》からず続《つゞ》いたが、さてよく見《み》ると仔細《しさい》があるわい。
路《みち》は此処《こゝ》で二|条《すぢ》になつて、一|条《すぢ》はこれから直《す》ぐに坂《さか》になつて上《のぼ》りも急《きふ》なり、草《くさ》も両方《りやうはう》から生茂《おひしげ》つたのが、路傍《みちばた》の其《そ》の角《かど》の処《ところ》にある、其《それ》こそ四|抱《かゝへ》さうさな、五|抱《かゝへ》もあらうといふ一|本《ぽん》の檜《ひのき》の、背後《うしろ》へ畝《うね》つて切出《きりだ》したやうな大巌《おほいは》が二ツ三ツ四ツと並《なら》んで、上《うへ》の方《はう》へ層《かさ》なつて其《そ》の背後《うしろ》へ通《つう》じて居《ゐ》るが、私《わし》が見当《けんたう》をつけて、心組《こゝろぐ》んだのは此方《こツち》ではないので、矢張《やツぱり》今《いま》まで歩行《ある》いて来《き》た其《そ》の巾《はゞ》の広《ひろ》いなだらかな方《はう》が正《まさ》しく本道《ほんだう》、あと二|里《り》足《た》らず行《ゆ》けば山《やま》になつて、其《それ》からが峠《たうげ》になる筈《はず》。
唯《と》見《み》ると、何《ど》うしたことかさ、今《いま》いふ其《その》
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